RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の11
4 宮城晴美証言について 
 (1)証言の概要
 宮城晴美は、法廷で座間味島での集団自決は「軍命令」によるものだと明確に証言した(宮城調書 p52)。
 しかし、その「軍命令」とは、「梅澤隊長の直接的な自決命令」(隊長命令)とは区別されたものであり(宮城調書 p42、51、52、54等)、「軍官民共生共死の一体化」の方針、皇民化教育や皇祭によりすり込まれた「皇国」への忠誠心、米軍への恐怖の喧伝、軍の隊長の訓示や兵士による手榴弾の交付、投降を指示しなかった不作為、そして軍の存在自体といった、いわば住民を導いた《軍の行為の総体》をいうものであり(宮城調書 p25、56、57)、「隊長命令」については、「あったかなかったかわからない」旨述べ、証言を避けた(宮城調書 p30、34、35、37、58等)。
 しかも、宮城晴美により「あったかなかったわからない」と証言された隊長命令については、これまで宮城晴美は『母の遺言』(甲B92)や『母の遺したもの』(甲B5)の中で完全に否定してきたものであるが、その考えが変わった理由について、宮城晴美は、平成19年7月27日の証言のわずか1か月前の同年6月24月に宮平春子の新証言に接したことを挙げた(宮城調書 p13、43)。
 また、『母の遺したもの』でその内容を公表した『ノート』(それは、梅澤が保持していたノート〈甲B32〉そのものである)の内容は真実であると証言し、それまで《梅沢隊長命令説》の唯一の根拠とされてきた『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)に収められた宮城初枝手記『血塗られた座間味島』の内容は、「事実でない」ということ(宮城調書 p35)、そして昭和20年3月25日に村の幹部らが原告梅澤に会い「住民が自決するための弾薬等を下さい」などと求めたが、原告梅澤がこれを断ったことも事実であること(宮城調書 p5)が、そこに「その後のことはわからない」としてあることを理由に、梅澤隊長が住民の求めを拒んだ前後に、命令が出された可能性は否定できないとし(宮城調書 p8、35)、更に、『母の遺したもの』で明確にうち出された、助役宮里盛秀こそが住民の「玉砕」を決断し宮平恵達を伝令として走らせたという《盛秀助役命令説》については、「実はそれは間違ってたというふうに今後悔しています」と述べた(宮城調書 p13)。
 (2)「軍命令」について
 宮城晴美は、「隊長命令」と区別された「軍命令」の内容につき、「軍官民共生共死の一体化」方針が座間味島にも具体化されていたこと、島の秘密基地化と島民に対する投降やスパイの禁止、日本軍の隊長や兵士らの「玉砕」の訓示や「いざというときの玉砕」の示唆、助役の忠魂碑前集合玉砕伝令などの状況を総合したものとの趣旨で説明する(乙63 p7〜9)。
また、証言においては、「軍の論理あるいは国家の論理というものを内面化させた誰かが引き金を引いたら、それは軍の命令である。それが軍による玉砕(自決)命令ということの本質である」との目取真俊の見解(甲B74 p159上段)に賛同するのかとの原告代理人の質問に対し、「ええ」と肯定し、「引き金を引いたのは助役であるが、そう助役を仕向けた軍の駐留と合わせて考えると、助役だけが独走して引き金を引いたものではないと考えられる」との旨証言する(宮城調書p54、55)。
 しかし、それらのように、「状況を総合した結果の評価」としての「軍命令」や、著しく抽象化された「軍命令」は、通常の意味における「軍命令の事実」そのものをいうものではなく、様々な解釈が可能な諸事実に対する宮城晴美の意見論評であり、しかも客観的に正当な論評とはとてもいえないものである。
「軍官民共生共死の一体化」方針等々の状況が総合されると、集団自決についての「軍命令」と評価できるというのは、明らかに飛躍のある解釈である。「玉砕訓示」も、まだ米軍来襲も想定されていない平時に(慶良間列島を米軍が攻撃すると日本軍が予想していなかったことは既に述べてきたとおり)、「軍民ともに死をも恐れず戦い抜こう」という意味の戦意高揚のスローガンに過ぎない。「直ちに自決せよ」との命令とはほど遠い内容である。
 「軍の論理を内在化した誰かが引き金を引いたら軍の命令」という主張も、これもまた一般人が想起する「軍命令」のイメージとは甚だ乖離したものであることは明かであり、事実としての「軍命令」が言われているのではなく、あくまでも目取真俊や宮城晴美の論評としての「軍命令」であることが明かになっている。 
 もともと、慶良間列島の集団自決において問題にされてきた「軍命令」は「隊長命令」を内容とするものであり、沖縄においても両者は別個の観念とは捉えられてこなかった。例えば、「隊長は命令を出さなかった」と書かれている『母の遺したもの』(甲B5)が沖縄タイムス出版文化賞を取ったときの記事も、書籍の内容紹介として「実は軍命はなかった、と母は著者に明かす」などとされている(甲B93の1)し、琉球新報が宮城晴美の講演を紹介した平成17年8月28日の記事でも「軍命はなかったが、住民の気持ちはじわりじわりと戦争に向けられていった」と宮城晴美の講演要旨を紹介している。
 これまで通常の記事や報道では、「軍命令」と「隊長命令」とを区別して論じるようなことはなかったのであり、今回の宮城晴美証言や同人の目取真俊との対談(甲B74)でうち出された皇民化教育や祭礼での訓示を含め軍の関与した諸事実をもとに、助役が発した命令を「軍命令」とよぶのは、一定の政治的な意図をもった論評といわざるをえず、歴史家のとる態度ではない。
 いうまでもなく、この裁判で座間味島の集団自決について問題になっているのは、あくまで原告梅澤が「老人・こどもは村の忠魂碑前で自決せよ」(『太平洋戦争』)、あるいは、「住民は、部隊の行動をさまたげないためにまた食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」(『沖縄ノート』)などという無慈悲な自決命令を出したという《隊長命令説》が事実かどうかという一事であり、隊長命令と区別された抽象的な「軍命令」という論評の当否ではない。
 冷静になれば分かるように、法廷で宮城晴美が「軍命令」と呼んだものは、「集団自決の背景には広い意味での軍の関与があった」というものに過ぎない。「軍の論理を内在化したものの命令というところに軍命令の本質がある」という言説は、まさにそのことを裏付けるものである。それを敢えて「軍命令」と論評するのは、事態を曖昧にするばかりか、事実としての「隊長命令」や「軍命令」との混同を誘発し、「じわりじわり追い詰められた」という晴美の認識そのものも裏切ることになる。教科書検定問題が大きく取り上げられている最中での証言であることを考えるとき、その証言が沖縄のマスコミが演出した沖縄世論の圧力によって政治的に偏向したものであることが推認される。
 (3)「隊長命令」との評価あるいは原告梅澤の責任論
 宮城晴美は、「状況」だけを材料に、解釈や論評により「軍命令」を認めたうえ、「原告梅澤は部隊長で島に駐留した部隊の最高責任者なのだから」という理屈で、「命令の主体は原告梅澤と解することができる」かのような証言をしたり(宮城調書p58)、「原告梅澤に『責任』がある」との旨の証言をなしたりもした(宮城調書p56)。
しかし、主観的な解釈により無理に認めたためにただでさえ曖昧模糊とした「軍命令」に、またもう一段階「評価」を加えて「隊長命令があったといえる」などと主張するのは、完全に事実から離れてさらに詭弁的である。隊長が現に発した命令が「隊長命令」なのであって(『太平洋戦争』や『沖縄ノート』に書かれているのはまさにそれである)、解釈や論評により「隊長命令」があらわれてくるというようなものではない。
 「責任がある」というのもまた、完全に議論のすり替えである。「責任の有無」が意味するところは、極めて広く多義的なしたものであり、《梅澤命令説》の存否とはほど遠い問題設定である。そもそも原告梅澤にあるという「責任」とは、何らか法的な責任なのか、単に道義的な責任なのか、不明である。また、この「責任」が、救おうと思ったら救えたのに住民を救えなかった「過失」の責任なのか、救えることが分かっていたのに見殺しにした「不作為」の責任なのか、積極的に死を促進した責任なのか、あるいは、住民の死を止めようがなかったとしても関わった以上心情的に感じるべき「責任」なのか、「日本軍が配置されたから島が米軍に攻撃されてしまった」責任なのか、そのあたりを被告らも宮城晴美も明らかにしようともしない。
 「責任」というな極めて茫漠とした言葉を盾に、あたかも「住民多数に自決を命令したと書かれても仕方ないだろう」というかのような主張がされるのは、法的にみて論外というだけでなく、倫理的にも到底容認されるものではない。
 (4)「隊長命令」についての住民の証言について
 宮城晴美は、「隊長命令」については、「あったかなかったかわからない」旨証言した(宮城調書 p30、34、35、37、58等)。
 そして、宮城初枝が助役らと一緒に原告梅澤を訪ねた場面では自決命令は原告梅澤から出されなかったが、「その前後」には自決命令が出されたことも「あり得る」かのようにも述べる(宮城調書p8)。しかし、それは結局「ひとつの可能性」の指摘に過ぎず、「その前後」の時期に原告梅澤からの自決命令が現に出たとの住民証言があったとは、晴美も証言することはできなかった。
 反対尋問で確認されたとおり、宮城晴美はこれまで、彼女が自ら取り組んできた住民の聞き取り調査の結果から、そして母初枝の体験談と初枝から託されたノートから、隊長命令が存在しなかったことを明確にしてきたのだった。
 証言にもあるように、隊長命令があることを前提に書かれた『座間味島の集団自決』(乙64『沖縄戦−県民の証言』所収)は、初枝が晴美に告白する5年も前の昭和47(1972)年の著述であり、それを「命令はあったと信じていた」に過ぎない宮平初子らからの聞き取りに基づいて書いたものに過ぎない(宮城調書p2)。
 宮城晴美は、母の告白を受け、『沖縄県史第10巻』(乙9)の住民手記をまとめる作業のなか、住民の証言内容から伝聞や根拠のあやふやなものを削除するなどの歴史家としておこなうべき資料吟味を行なって、中立公正な歴史家、研究者としての立場から、住民証言をまとめたのである(甲B5p258、259)。
 晴美が証言しているように、『沖縄県史第10巻』の座間味村の住民21人分の手記も、『座間味村史』下巻(乙50)の住民21人分の手記も、更には『母の遺したもの』に収められた住民の証言もすべて宮城晴美が直接聞き取りあるいは確認して作成されたものである。そうして収集された住民の証言のなかに、《隊長命令説》を裏付ける内容のものは一切なかったことは、宮城晴美も明確に認めている(調書p51)。
 宮城晴美は、宮平春子についても、過去に綿密な取材を行い、『母が遺したもの』にその体験を記述している。宮城晴美は、盛永の『自叙伝』に書かれている命令の場面のことを、作業中の聞き取りであったことや自らの多忙を理由に聞き忘れたかのごとき証言を行なったが、後述するように俄に措信し難いものである。
 そして本件訴訟において重要な点は、今回の証言において、これまでの主張を曲げ、集団自決が「軍命」によるものであるという、その定義を曖昧にしたまま祭礼の教訓や個々の兵士の諸言動を含めた抽象的な「軍命」を持ち出し、教科書検定問題を意識し、そうした「軍命」が原因であったという立場に立つという政治的な姿勢と偏向を明らかにしたのであるが、その宮城晴美であっても、隊長命令については、「あったかなかったかわからなかった」と証言していることは重要である。
 結局のところ、宮平春子の証言は、それのみをもって隊長命令の存在を立証するまでの証拠価値をもっていないのである。「隊長命令があった」とは言わず、「あったかわかったかわからない」とした宮城晴美の証言は、沖縄の世論と政治に翻弄されつつも苦悩する彼女の歴史家としての良心のあらわれであったということができようか。
author:南木隆治, category:-, 02:27
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の12
(5)宮平春子の証言について
 宮城晴美は、これまで隊長命令については、証拠上も自らの直感においても存在しなかったという立場を明確にしてきたのだったが、平成19年6月に宮平春子の新証言なるものに接した後に「あったかなかったわからない」との認識に変わったと証言した。
 しかし、宮城晴美の証言は、宮平春子の新証言なるものに対する根本的な疑問を提起することになった。
 すなわち、前記のとおり宮城晴美は、過去にも宮平春子から綿密な聞き取りを行い、これに基づいて『母の遺したもの』の白眉ともいうべき場面を記述している。自決の覚悟を固めた助役の盛秀が、幼い子供達を膝間付いて抱擁し、盛永に、十分な親孝行ができなかったことを詫び、水杯を交わして壕の外に出て、忠魂碑前に向うも途中で引き返し、結局、自決を免れたシーン(甲B5 p216〜219)は、宮平春子の証言に基づくものである(調書p43〜47)。
 これだけの場面を描くのには、相当の聞き取りを要することが推測される。しかも、その場面には、盛永の『自叙伝』から「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」との盛秀の言葉が挿入されており、そこから宮城晴美が、予め『自叙伝』を読み込み、そこに記載された盛秀の言葉を強く意識していたことが推認できるのであり、宮平春子からの聞き取るにあたっては、このことについて宮城晴美が質問するのを忘れていたなどということはありえない。
晴美は、この点を問う反対尋問に対し、聞き取りが春子の作業中になされたとか、他の仕事に追われて忙しかったと陳弁するが、『母の遺したもの』の白眉ともいうべき感動的場面、しかも《盛秀助役命令説》をうち出すにあたって最も重要な場面を書くにあたってなされた取材が、そうした杜撰なものであったとは到底信用できるものではない。
すなわち、『母の遺したもの』に書かれた盛秀が壕に戻ってきてから盛永と水杯を交わし、壕を出て忠魂碑前に向う場面が、宮平春子に対する取材に基づくものであるという晴美の証言は、相当の時間をかけて綿密になされたはずの取材のなかで宮平春子は、陳述書に記述された「軍の命令がすでにでた」との内容の発言はしなかったことを意味しており、春子の新証言なるものの信用性に対する最大の弾劾である。
 更に、その証拠価値については、盛永の『自叙伝』(乙28)における盛秀の言葉との齟齬のことを吟味しなければならない。『自叙伝』では、「軍」という主体がなく、盛秀の「今晩 −中略− 命令があるから」という予想を語ったにすぎない(結局、その後、出る予定だった命令が、現に出されたという記述はない)。春子の陳述書(乙51)では、「軍から」、既に「命令で −中略− 言われている」とされている。
 そのときの言葉は、盛永は盛秀から直接告げられており、春子はそれを傍観していたに過ぎない。そのときの盛秀の言葉が、春子のいうようなものであったとすれば、そのことを直接聞いていた盛永が書き漏らすはずがないのである。
 軍命令があったとする春子の新証言は、60年もたった後に突如出てきたものであり、しかも盛秀が盛永に語るのを傍観したというものである。しかも、これまで晴美の綿密な取材のなかでも一言も話されたことがなかったのであるから、春子の証言自体、その信用性は甚だ疑わしいといわざるをえない。
 さらに指摘すれば、宮城晴美は、盛秀の言ったという言葉についての盛永の『自叙伝』の記述も、宮平春子の新証言も「同じことが基本的に言われている」との旨証言した(宮城調書p49)。
 そうなのである。宮平春子の新証言に新味はないというべきであろう。
 宮城晴美は、『母の遺したもの』において「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」という盛永の言葉を引用しており、その言葉を踏まえたうえで、原告梅澤が自決命令を出したことを否定し、かつ、命令を出したのは助役の盛秀だったと判断したのである。
 春子の新証言なるものは、その信用性においてもその証拠価値においても甚だ問題を抱えるものであり、それをもって軍命の証拠だということができないことは明かである。
 (6)まとめ
  結局、宮城晴美の証言は、彼女が丹念に積み重ねてきたライフワークともいうべき調査研究の成果や、秘められた真実を世に広く明らかにし社会的にも非常に評価の高い自著『母の遺したもの』の歴史的意義、周囲を敵に回してでも原告梅澤の社会的名誉を回復せねばならないと決意した母初枝の遺志などを、ことごとく否定するものであった。
  種々の政治的圧力に屈しての不本意な証言であったろうとは想像するが、近年までの、宮城晴美の歴史家としての誠実な足跡、業績を顧みるとき、その価値を、今回の証言をもって自ら貶める結果となったことは、強く惜しまれるところである。
5 新証拠なるものについて
(1)はじめに
 本件訴訟では、従前からの資料のほか、提訴後に公表された「新証拠」が、多数、被告側から提出されたが、《梅澤命令説》を根拠づけるものとしてその証拠価値は極めて乏しいものばかりであった。
 これまでの準備書面では、その点を十分に指摘できていなかったので、ここで述べておく。
 (2)宮村文子陳述書(乙41)
 宮村文子は、宮村幸延の妻であり、『証言』書面(甲8)については「夫が酒に酔ってわけがわからなくなったときに書かされたものと思う」と述べ、昭和62年神戸新聞報道(甲B11)については神戸新聞社の取材の事実も否定する(乙41)。
 しかし、そのような説明を到底そのまま信用することはできない。
 既に縷々指摘したとおり、宮村幸延は、『証言』書面を作成交付したことについて、神戸新聞報道を契機に、村当局や関係者、他の住民らからひどく責められ(甲B5p270、甲B26p307)、その後その弁明に追われていたのであり、妻である文子も幸延と同じ弁明をせねばならない状況があったこと、そして現在もそれは続いていることは、容易に推測できるのである。
 同様に、幸延も文子も、神戸新聞の取材についても、自分たちの責任を免れるため、あるいは、『証言』内容の真実性を否定しようとする者らの圧力から、否定せざるを得ない立場なのである。
 文子も、この記事について「騒ぎになった」とまで書いているが(乙41p2)、幸延が神戸新聞社に記事捏造について抗議したとは述べていないし、実際抗議はなされなかった(甲B103)。現に取材がなされたからである。
 また、文子は、集団自決の当時20歳で座間味島にいた者であるが、集団自決の理由は「米軍が上陸したら玉砕するように言われていたからだと思う」と述べ、具体的に基地大隊の小沢隊長から「アメリカ軍が上陸したら耳や鼻を切られ、女は乱暴されるから、自分で玉砕しなさい」言われた旨述べている(乙41p1)。
 しかし、まず文子は、《梅澤による自決命令》があったことを具体的に何も述べていない。確かな軍命令、隊長命令があったならば、当然、直接間接に文子の耳にも届いているはずではなかろうか。
 文子が挙げる小沢隊長の言葉は、米軍の攻撃の半年も前の、まだ平時の時期に述べられた一種の心構えの訓示に過ぎず、文子自身「小沢隊長は−中略−言いました」と表現するように、「命令」などと評価できるものではない。また内容も、「米軍に残虐な目に遭わされるような場面が迫ったら、『玉砕』して、自分の貞操や尊厳を守りなさい」との趣旨の示唆に過ぎない。「軍の足手まといだから」とか、「食糧を軍に残すために」とかいう理由での自決命令とは、ほど遠い内容である。
その後米軍に投降した住民を無事だったのだから、結果的に小沢隊長が述べたような「米軍が残虐な行為をする」という指導は誤りであり、軍が住民を誤った方向に導いたとの指摘もされるが、当時は軍民とも「米軍に捕まったら残虐な目に遭わされる」と信じており、また、そう信じる根拠も少なくなかった(原告準備書面(2)p50、甲B87p69等参照)。また、米軍は現実に、慶良間列島においても、国際法無視の、民間人を巻き込んだ絨毯爆撃等の残虐行為をしたことにも留意されねばならない。
 加えて、文子の体験記が『座間味村史』下巻(乙50)p56以下に『目の前に首吊り』と題して収録されているが、そこでは文子は、自決現場の悲惨な模様の描写は詳しくなされているにもかかわらず、自決の原因について「軍が玉砕するよう住民に言っていたためだった」などとは一切述べていないのである。
 結局、文子が、軍命令や隊長命令についての具体的な直接証言は以前も現在も何らなしていないことが、明らかになっているというほかない。
author:南木隆治, category:-, 02:29
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の13
(3)宮平春子陳述書(乙51)
 宮平春子は、宮村(旧姓宮里)盛永の娘であり、宮里盛秀の妹であるが、この訴訟において、「盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて、父盛永に向かって『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。−中略−』と言いました」と述べており(乙51)、《梅澤命令説》の証言者とされる。
 しかし、ここで語られる「軍からの命令」というのは、伝聞というだけでなく(仮に盛秀がそう言ったとしても、盛秀が皆を導くために「軍からの命令」と真実ではないことを言ったとも考えられる)、春子自身もまた生き残った盛永もこれまで述べていなかったことが、突然に語られてることになっているという点で、証拠価値に大きな疑問がある。
 すなわち、かかる盛秀の「軍からの命令で」という言葉は、盛永の『自叙伝』(乙28)には出てこない。盛秀の言葉を聞いた盛永自身が、書き残していないのであるから、かかる言い方が本当にされたのか、そもそも大いに疑問である。年配者の宮村盛永が、体験した重要な事実を記憶も生々しい戦後まもなくに(昭和31年)しっかりと書き残した『自叙伝』の内容と、突然60年以上経って新たに付け加えられた宮平春子の「新証言」の内容と、どちらに信用性があるかは一目瞭然であろう。
 また、宮平春子は、宮城晴美の詳しい聞き取り調査を受け、『それが母の遺したもの』p217等に書かれているが、そこにも、全く盛秀の「軍からの命令で」という言葉はでてこないのである。その部分を引用する。
「しばらくしてもどってきた盛秀は深刻な表情で、『今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着替えて集合しなさい』(盛永の父・宮村盛永の「自叙伝」より)と家族に向って言った。
 盛秀の妹の春子(一九才)は、残していたご飯をおにぎりにして、家族一人ひとりに配った。−中略−出発の前、七歳、六歳、三歳の三人の子供の前にひざまずいた盛秀は、三人をひとまとめに抱き抱え、『これからお父さんと一緒に死のうね。みんな一緒だから恐くないよ』と、頬ずりしながら、しばらく子供達を強く抱きしめた。
 涙声はまもなく嗚咽にかわった。それから杯に入れて父親の盛永の前に進み、『お父さん、この世では十分親孝行できませんでしたが、あの世ではきっと孝行します』と水杯を交わした。
 親、兄弟とも涙、涙で、あの世での再会を約束した。
 盛秀の妻は、まだ一才にもならない三女を背負っているため、三歳の次女を義妹の春子に預けた。
 『娘をお願いね。あの世に行ってから必ず会おうね』と涙をぬぐいながら固く春子の手を握った。
 一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。」
春子からの聞き取りをももとに、これだけ詳しい迫真的な再現がなされていながら、盛秀の、「軍からの命令で」という言葉は記されていない。宮城晴美は「軍命令の有無」に大きな関心を抱き、それを焦点のひとつとして春子ら関係者に取材をしたにもかかわらず、である。
 それは、春子がかかる説明をこれまでしてこなかったからにほかならないと思われる。とすれば、突然60年以上経って新たに付け加えられた「証言」の信用性には問題があるといわざるを得ない。
この点、宮城晴美は法廷での証言で、「盛秀が玉砕命令の予告を告げたときの状況は重要な事実との認識があった」し、「春子かしかそのときの状況について(宮城晴美に)話せる人がいなかった」と認めつつも(宮城調書p46、47の要旨)、「春子の作業中にお邪魔して聞き取りをしたので、十分時間をとって聞けなかったために、『軍からの命令で』との点は聞き漏らしをしてしまっていた」(宮城調書p14、45の要旨、乙63p6も同旨)、「執筆当時は多忙だったので、改めて春子に確認をすることができなかった」(宮城調書p47の要旨)などと弁解している。
 しかし、『母の遺したもの』の執筆の晴美にとっての重要性(晴美にとっては、集団自決事件に人生を翻弄された一家の家族史として重要なだけでなく、物書きとしても、同書は「一世一代の作品」だったはずである)や、春子からの聞き取りの成果が前記のように非常に詳細なものになっていること等からして、かかる晴美の弁解は到底信用に足るものではなく、まさしく「とってつけたような言い訳」というほかはない。
 なお、宮平春子については、乙53朝日新聞記事中でも、「爆撃のさなか、逃げ込んだ壕の中で兵隊から言われた。『捕まらないように潔く死んでください』との内容だった」との体験が紹介されているが、この兵士の言葉は、「米軍に捕まったら、生きるよりもよほどつらい地獄のような目に遭う。そうなりそうになったら自決を」という内容の、いわば「極限状況下での慈悲」(曽野綾子は「疲れ切った温情」と表現し、〈甲B94p68〉、小林よしのりは「善意から出た関与」と表現する〈甲B87p71〉が同趣旨である)の表現ととらえるべきであろう。だからこそ「死んでください」という個人的かつ穏やかな言い方なのであり、《梅澤命令説》とはかけはなれた内容である。
author:南木隆治, category:-, 02:30
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の14
(4)上洲幸子陳述書(乙52)
 上洲幸子は、米軍上陸後4、5日経ったころ、筒井中尉から「アメリカ軍が上陸しているが、もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」との「指示」を受けた旨述べる(乙52。甲B9、乙53にも同旨のコメントあり)。
 しかし、これも、前記の小沢隊長の訓示や、宮平春子が爆撃のさなか壕内で兵隊から聞いた言葉と同様に解釈できるものである。
 すなわち、いよいよ米軍に捕まるのも目前という段階になり、「米軍に捕まったら、生きるよりもよほどつらい地獄のような目に遭う。そうなりそうになったら自決を」との、慈悲、温情を込めた示唆と解するのが自然である。
もし、《梅澤命令説》が真実であったのであれば、「敵に見つかったらとか」、「捕まりそうになったら」などと条件を付するはずがない。上洲幸子らに対しては、「既に自決命令は出ている。住民はすぐに自決せよ」との指示を、筒井中尉はなしたはずではないか。
 (5)宮里育江陳述書(乙62)
 宮里育江(旧氏名は宮平菊枝)も、陳述書(乙62)を提出し、特幹兵から「自決しなさい」といって手榴弾を渡された体験を述べ、「座間味島の集団自決は、村の幹部が軍の命令なしに勝手に行ったものでは決してないはずです」、「集団自決の責任は軍にあり、その隊長に責任がなかったとはいえないと思います」と結論づける。
 しかし、まず結論部分は、証言というよりも、育江の「意見」であることは明らかである。育江は、「はずです」との表現をなし、具体的直接的な事実証言として語れないのであり、軍命令や隊長命令の有無の問題を「軍や隊長の責任」の問題に言い換えて自己の「解釈」を述べるだけなのである。
 特幹兵から「自決しなさい」といって手榴弾を渡されたという体験についても、より詳しい『座間味村史』下巻の体験記をよく読むと、育江が特幹兵の出撃に同行したいとせがんだら、「あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れて行くわけにはいかない」と断られたときの場面であり(乙50p61)、明らかに、兵が、民間人を戦闘に巻き込んで無駄に生命を落とさせることがないように配慮していることが分かる。
 また、手榴弾についても「これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい」と言って渡されている(乙50p61)。すなわち、これも、「米軍に凌辱虐殺されそうになったら」という条件付きでの、示唆であり、慈悲、温情から出でたる「善意の関与」である。
 (6)與儀九英回答書(乙48)
被告は、新証拠の與儀九英回答書(乙48。乙82にも同旨あり)や、大城昌子手記(乙9p729等)に、阿嘉島の野田隊長の「敵上陸の暁は全員玉砕あるのみ」等の訓示があることを、《梅澤命令説》、《赤松命令説》の根拠とするが、これもあまりに無理な解釈であることは、原告準備書面(7)p49以下、原告準備書面(9)p5以下で縷々指摘したとおりである。
改めてその要点を指摘すると下記のとおりである。
まず、阿嘉島の事例は、本件訴訟で問題となっている座間味島、渡嘉敷島の集団自決とは別のものである。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかった(乙9p700)。野田隊長による「自決命令の訓示」があったと仮にしても、阿嘉島で集団自決が一件も発生していないのであるから、野田隊長の訓示は何の意味も持たなかったことになる。
 また、大城昌子証言は「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」(乙9p730)とするものであり、単なる伝聞にすぎない。しかも、大城昌子は「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。−中略−考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」(乙9p730)と、命令とは無関係に自らの意思で自決した旨述べている。
 さらに、『座間味村史』下巻(乙49)においては、「慶留間部落民は、−中略− 戦隊長・野田少佐から訓示を受けた際、隊長がしきりに『玉砕』について話していたことが脳裏にひっかかっていた。この『玉砕』の話の内容について詳しく覚えている人はいないが、隊長がこと細かに『玉砕』について説明していたことから、ほとんどの住民が“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味だな”と解釈していた。ただその場では自分たちとはおよそ無縁の話だと、そんなにこだわりもせず聞き流した程度であったが、上陸によって、住民たちは野田隊長の訓示の意味を悟ったという」との記載がある(乙49p357、358)。
 そもそもこのような訓示があったか否かに疑問が残る。『沖縄県史第10巻』(乙9)においては、大城昌子が伝聞ではあるがそのような訓示について論及しているが、平成元年発行の『座間味村史』下巻においては、「内容について詳しく覚えている人がいない」として結局具体的に野田隊長の訓示内容を証言できる者がいなかったことが明らかとなっている。
 そのような野田隊長の玉砕訓示の内容が、現在になって突然與儀九英によって具体的に明らかにされた(乙48)というのも、釈然としないところである。
 この点については、近時の琉球新報記事において、中村武次郎のコメントが紹介されているが、「昭和19年に隊長が島に来て島民400人を運動場に集めて訓示したが内容は覚えていない」(乙75の3)とされており、やはり参加者が「内容を覚えていない」程度のもので、「玉砕訓示」があったかも定かではないのである。
 このような野田隊長の玉砕訓示が仮にあったとしても、それは(與儀を除いて)「内容について詳しく覚えている人がいない」程度の話であり、さらに“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味であると「解釈した」が、「自分たちとはおよそ無縁の話だと聞き流した程度であった」というのであるから、およそ具体的な「命令」とは考えられないものである。
 さらに、「玉砕」という言葉自体についても、「軍民一丸となって死を恐れずに敵に向かっていき精一杯戦うべし」という士気高揚の意味にとるのがむしろ自然であり、また自決を示唆するものとしても、「いよいよ米兵に虐殺陵辱されそうになったら」という条件付きのものとも取ることができる。いずれにしても「全員玉砕アルノミ」との言葉を、「部隊の足手まといにならぬよう、また、部隊に食糧を提供するために住民は先に自決せよ」というような非情な自決命令と解するのは、あまりに強引な解釈である。
 (7)沖縄タイムス記事中のコメント
ア 宮村トキ子(乙71)
 宮平春子の妹であり、もう1人の宮村盛永の娘である宮村トキ子も、沖縄タイムス記事中で、盛秀が「お父さん、軍から命令が来ているんです。もういよいよですよ」と答えたと語っている(乙71)。
 後記第5のとおり、沖縄タイムスの報道自体、極めて強い政治性に基づく偏ったものであり、本件訴訟では宮村トキ子の陳述書も出ていない以上、記事自体の証拠価値は薄い。
 また、なぜ宮村盛永『自叙伝』(乙28)にそのような重要な盛秀の言葉が出ていないのか、そして、なぜ現段階でかかる「新証言」が突然に現れるのかも、前記の宮平春子の新証言と同様、大いに疑問である。
 年配者の宮村盛永が体験した重要な事実を戦後まもなくに生々しく書き残した『自叙伝』と、集団自決事件当時14歳くらいだったトキ子が当時記憶したということを戦後60年経って突然に語った内容と、どちらに信憑性があるかは、論を待たないはずである。
イ 宮川スミ子(乙98)
 宮川スミ子という「新証人」は、沖縄タイムス記事中で、「忠魂碑前で日本兵が母のマカに対し、『米軍に捕まる前にこれで死になさい』といい、手榴弾を渡そうとした」旨語っている(乙98)。
宮里育江陳述書(乙62)にも、宮川スミ子が同趣旨を述べていると書かれている(手榴弾を渡そうとしたのは「大坂伍長」〈ないし大阪伍長〉であるとする)。
 繰り返すが、沖縄タイムスの報道自体、極めて強い政治性に基づく偏ったものであり、本件訴訟では宮川スミ子の陳述書も出ていない以上、記事自体の証拠価値は薄い。
また、スミ子は、集団自決事件当時、12歳くらいという年齢であり(乙98記事の時点で74歳)、どこまで当時の出来事について正確な理解と記憶があるのか、大いに疑問である。
 内容的にも、まず、どうして日本兵が忠魂碑前にいたのか、よく分からないし(防衛隊員の誤解ではなかろうか)、軍からの自決命令があったならば、どうしてその場で軍が住民らに対し、組織的に自決実行命令を指揮しないのかも不明である。一伍長が、たくさんの住民の中から、マカという一住民にだけ手榴弾を渡すなどということは、百歩譲って実際あったとしても、「軍命令の実行」などとはほど遠い実態である。
 宮城晴美は記事中で、「忠魂碑前に日本軍の存在があったことが初めて分かった」などとコメントしているが、これまで永年にわたり自身が調べ尽くした事件について、現段階でかかる「価値ある新証言」が突然に現れることについて晴美が何ら疑問をもっていないとしたら、逆に原告らとしてはそのことに首をひねらざるを得ない。
ウ 沖縄タイムス記事の信用性
 後記第5で詳論するが、沖縄タイムス記事は、ことこの集団自決問題については、客観報道の範疇を大きく逸脱し、軍命令や隊長命令があったとする政治的立場から、意図的に、「新証言」を作り出しあるいは誇大なまでに強調し、また不都合な証拠や意見については歪曲や議論のすり替えを行って、世論を誘導しようとしているものといわざるをえない。
 かような姿勢での、この問題についての沖縄タイムス社報道について、裁判上証拠価値を軽々に認めることはできない。
author:南木隆治, category:-, 02:36
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の14
(4)上洲幸子陳述書(乙52)
 上洲幸子は、米軍上陸後4、5日経ったころ、筒井中尉から「アメリカ軍が上陸しているが、もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」との「指示」を受けた旨述べる(乙52。甲B9、乙53にも同旨のコメントあり)。
 しかし、これも、前記の小沢隊長の訓示や、宮平春子が爆撃のさなか壕内で兵隊から聞いた言葉と同様に解釈できるものである。
 すなわち、いよいよ米軍に捕まるのも目前という段階になり、「米軍に捕まったら、生きるよりもよほどつらい地獄のような目に遭う。そうなりそうになったら自決を」との、慈悲、温情を込めた示唆と解するのが自然である。
もし、《梅澤命令説》が真実であったのであれば、「敵に見つかったらとか」、「捕まりそうになったら」などと条件を付するはずがない。上洲幸子らに対しては、「既に自決命令は出ている。住民はすぐに自決せよ」との指示を、筒井中尉はなしたはずではないか。
 (5)宮里育江陳述書(乙62)
 宮里育江(旧氏名は宮平菊枝)も、陳述書(乙62)を提出し、特幹兵から「自決しなさい」といって手榴弾を渡された体験を述べ、「座間味島の集団自決は、村の幹部が軍の命令なしに勝手に行ったものでは決してないはずです」、「集団自決の責任は軍にあり、その隊長に責任がなかったとはいえないと思います」と結論づける。
 しかし、まず結論部分は、証言というよりも、育江の「意見」であることは明らかである。育江は、「はずです」との表現をなし、具体的直接的な事実証言として語れないのであり、軍命令や隊長命令の有無の問題を「軍や隊長の責任」の問題に言い換えて自己の「解釈」を述べるだけなのである。
 特幹兵から「自決しなさい」といって手榴弾を渡されたという体験についても、より詳しい『座間味村史』下巻の体験記をよく読むと、育江が特幹兵の出撃に同行したいとせがんだら、「あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れて行くわけにはいかない」と断られたときの場面であり(乙50p61)、明らかに、兵が、民間人を戦闘に巻き込んで無駄に生命を落とさせることがないように配慮していることが分かる。
 また、手榴弾についても「これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい」と言って渡されている(乙50p61)。すなわち、これも、「米軍に凌辱虐殺されそうになったら」という条件付きでの、示唆であり、慈悲、温情から出でたる「善意の関与」である。
 (6)與儀九英回答書(乙48)
被告は、新証拠の與儀九英回答書(乙48。乙82にも同旨あり)や、大城昌子手記(乙9p729等)に、阿嘉島の野田隊長の「敵上陸の暁は全員玉砕あるのみ」等の訓示があることを、《梅澤命令説》、《赤松命令説》の根拠とするが、これもあまりに無理な解釈であることは、原告準備書面(7)p49以下、原告準備書面(9)p5以下で縷々指摘したとおりである。
改めてその要点を指摘すると下記のとおりである。
まず、阿嘉島の事例は、本件訴訟で問題となっている座間味島、渡嘉敷島の集団自決とは別のものである。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかった(乙9p700)。野田隊長による「自決命令の訓示」があったと仮にしても、阿嘉島で集団自決が一件も発生していないのであるから、野田隊長の訓示は何の意味も持たなかったことになる。
 また、大城昌子証言は「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」(乙9p730)とするものであり、単なる伝聞にすぎない。しかも、大城昌子は「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。−中略−考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」(乙9p730)と、命令とは無関係に自らの意思で自決した旨述べている。
 さらに、『座間味村史』下巻(乙49)においては、「慶留間部落民は、−中略− 戦隊長・野田少佐から訓示を受けた際、隊長がしきりに『玉砕』について話していたことが脳裏にひっかかっていた。この『玉砕』の話の内容について詳しく覚えている人はいないが、隊長がこと細かに『玉砕』について説明していたことから、ほとんどの住民が“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味だな”と解釈していた。ただその場では自分たちとはおよそ無縁の話だと、そんなにこだわりもせず聞き流した程度であったが、上陸によって、住民たちは野田隊長の訓示の意味を悟ったという」との記載がある(乙49p357、358)。
 そもそもこのような訓示があったか否かに疑問が残る。『沖縄県史第10巻』(乙9)においては、大城昌子が伝聞ではあるがそのような訓示について論及しているが、平成元年発行の『座間味村史』下巻においては、「内容について詳しく覚えている人がいない」として結局具体的に野田隊長の訓示内容を証言できる者がいなかったことが明らかとなっている。
 そのような野田隊長の玉砕訓示の内容が、現在になって突然與儀九英によって具体的に明らかにされた(乙48)というのも、釈然としないところである。
 この点については、近時の琉球新報記事において、中村武次郎のコメントが紹介されているが、「昭和19年に隊長が島に来て島民400人を運動場に集めて訓示したが内容は覚えていない」(乙75の3)とされており、やはり参加者が「内容を覚えていない」程度のもので、「玉砕訓示」があったかも定かではないのである。
 このような野田隊長の玉砕訓示が仮にあったとしても、それは(與儀を除いて)「内容について詳しく覚えている人がいない」程度の話であり、さらに“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味であると「解釈した」が、「自分たちとはおよそ無縁の話だと聞き流した程度であった」というのであるから、およそ具体的な「命令」とは考えられないものである。
 さらに、「玉砕」という言葉自体についても、「軍民一丸となって死を恐れずに敵に向かっていき精一杯戦うべし」という士気高揚の意味にとるのがむしろ自然であり、また自決を示唆するものとしても、「いよいよ米兵に虐殺陵辱されそうになったら」という条件付きのものとも取ることができる。いずれにしても「全員玉砕アルノミ」との言葉を、「部隊の足手まといにならぬよう、また、部隊に食糧を提供するために住民は先に自決せよ」というような非情な自決命令と解するのは、あまりに強引な解釈である。
 (7)沖縄タイムス記事中のコメント
ア 宮村トキ子(乙71)
 宮平春子の妹であり、もう1人の宮村盛永の娘である宮村トキ子も、沖縄タイムス記事中で、盛秀が「お父さん、軍から命令が来ているんです。もういよいよですよ」と答えたと語っている(乙71)。
 後記第5のとおり、沖縄タイムスの報道自体、極めて強い政治性に基づく偏ったものであり、本件訴訟では宮村トキ子の陳述書も出ていない以上、記事自体の証拠価値は薄い。
 また、なぜ宮村盛永『自叙伝』(乙28)にそのような重要な盛秀の言葉が出ていないのか、そして、なぜ現段階でかかる「新証言」が突然に現れるのかも、前記の宮平春子の新証言と同様、大いに疑問である。
 年配者の宮村盛永が体験した重要な事実を戦後まもなくに生々しく書き残した『自叙伝』と、集団自決事件当時14歳くらいだったトキ子が当時記憶したということを戦後60年経って突然に語った内容と、どちらに信憑性があるかは、論を待たないはずである。
イ 宮川スミ子(乙98)
 宮川スミ子という「新証人」は、沖縄タイムス記事中で、「忠魂碑前で日本兵が母のマカに対し、『米軍に捕まる前にこれで死になさい』といい、手榴弾を渡そうとした」旨語っている(乙98)。
宮里育江陳述書(乙62)にも、宮川スミ子が同趣旨を述べていると書かれている(手榴弾を渡そうとしたのは「大坂伍長」〈ないし大阪伍長〉であるとする)。
 繰り返すが、沖縄タイムスの報道自体、極めて強い政治性に基づく偏ったものであり、本件訴訟では宮川スミ子の陳述書も出ていない以上、記事自体の証拠価値は薄い。
また、スミ子は、集団自決事件当時、12歳くらいという年齢であり(乙98記事の時点で74歳)、どこまで当時の出来事について正確な理解と記憶があるのか、大いに疑問である。
 内容的にも、まず、どうして日本兵が忠魂碑前にいたのか、よく分からないし(防衛隊員の誤解ではなかろうか)、軍からの自決命令があったならば、どうしてその場で軍が住民らに対し、組織的に自決実行命令を指揮しないのかも不明である。一伍長が、たくさんの住民の中から、マカという一住民にだけ手榴弾を渡すなどということは、百歩譲って実際あったとしても、「軍命令の実行」などとはほど遠い実態である。
 宮城晴美は記事中で、「忠魂碑前に日本軍の存在があったことが初めて分かった」などとコメントしているが、これまで永年にわたり自身が調べ尽くした事件について、現段階でかかる「価値ある新証言」が突然に現れることについて晴美が何ら疑問をもっていないとしたら、逆に原告らとしてはそのことに首をひねらざるを得ない。
ウ 沖縄タイムス記事の信用性
 後記第5で詳論するが、沖縄タイムス記事は、ことこの集団自決問題については、客観報道の範疇を大きく逸脱し、軍命令や隊長命令があったとする政治的立場から、意図的に、「新証言」を作り出しあるいは誇大なまでに強調し、また不都合な証拠や意見については歪曲や議論のすり替えを行って、世論を誘導しようとしているものといわざるをえない。
 かような姿勢での、この問題についての沖縄タイムス社報道について、裁判上証拠価値を軽々に認めることはできない。
author:南木隆治, category:-, 02:36
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の15
 6 座間味島住民の証言について
 (1)はじめに 
 新証拠として被告から提出された住民の証言に比して、これまで『沖縄県史第10巻』(乙9)、『座間味村史』下巻(乙10)、「潮」の『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)、『潮だまりの魚たち』(甲B59)等で取り上げられてきた住民の証言の内容は、まずなによりも中立的であるし、その内容も圧倒的なものがある。通読すれば、座間味島の集団自決が、《梅澤命令説》が虚構であることは一目瞭然であり、それが広義の軍命令によるものだとする主張も事実に即したものではないことが分かる。いうまでもないが、新証拠なるものの証拠としての価値は、原告らが各証拠毎に指摘した前記諸点に加え、そうした圧倒的な証言群との対比において吟味されなければならないものであることを指摘しておきたい。
 (2)『沖縄県史第10巻』(乙9)
宮里トメら9名の座間味島住民の詳細な手記が掲載されているが(p732〜762)、集団自決についての軍命令、隊長命令を証言する内容のものは全くない。
 個々の証言内容については、原告最終準備書面(その2)−住民証言篇−の第2に譲る。
 (3)『沖縄県史第10巻』(乙9)
26名の座間味村住民の詳細な戦争体験記が掲載されており、その大半が座間味島の住民の体験記であるが、集団自決についての軍命令、隊長命令を証言する内容のものはやはり全くない。
 個々の証言内容については、最終準備書面その2−住民証言篇−の第2に譲る。
 (4)『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)
座間味島関係者としては、田中登(p121)、松本光子(p123)、宮城初枝(p123)、宮里正太郎(p125)の証言が紹介されている。また「猫いらず」で家族全員を死なせ、自分だけが生き残ってしまったという当間正夫の証言(p124)内容は、『母の遺したもの』の「A家の隆三」のエピソード(甲B5 p109〜)と同一なので、当間も座間味島の住民であると思われる(なお、『母の遺したもの』は住民の氏名の一部を仮名にしている。甲B5 p10)。
 「沖縄は日本兵に何をされたか」というタイトルの特別企画であるにもかかわらず、この5名の証言にも、集団自決についての軍命令、隊長命令は出てこない。
 個々の証言内容については、最終準備書面その2−住民証言篇−の第2に譲る。
 (5)『潮だまりの魚たち』(甲B59)
 著者宮城恒彦が自身含め10名ほどの座間味島の若者たちの戦争体験を非常に丁寧にまとめているが、集団自決についての軍命令、隊長命令は一切記されていない。
 個々の証言内容については、最終準備書面その2−住民証言篇−の第2に譲る。
 (6)まとめ
 以上のとおり、多くの文献に多数の座間味島住民の証言が記されているが、《梅澤命令説》を証言するものは一つとしてないのである(宮城晴美も証言でそれを認めている。宮城調書p51)。
 上記の文献に加え、『母の遺したもの』(甲B5)にも多数の住民が証言者として登場し、その多くについて宮城晴美は直接取材を行ったものと思われるが、それらを含めると、少なくとも数十人単位の集団自決事件の体験者が直接間接に事件を証言しているにもかかわらず、軍命令あるいは隊長命令は報告されないのである。
 《梅澤命令説》が真実ではなかったことの何よりのあらわれではなかろうか。
 7 梅澤部隊の行為の総体
 (1)住民証言にみる梅澤部隊の行為
 宮城初枝は、神戸新聞の取材に対し、「梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」とコメントしており(甲B9)、原告梅澤が盛秀ら村幹部に、自決せずに生きよとの旨伝えていたことは明らかである(梅澤調書p5も同旨)。
 それだけではなく、梅澤部隊の兵士が集団自決の起こった前後、すなわち米軍上陸という危機的な段階に至っても、住民に「できる限り生きよ」との趣旨の指示をしたという証言も少なくない。
 例えば、『潮だまりの魚たち』(甲B59)には、米軍上陸後のこととして、宮里育江が、死期をさとった日本兵(少尉)にも遭遇した際の場面について以下のように証言している。「しばらくして、死の近いことを悟ったのか、傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡し『自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい。』」(p167)。軍が自決命令を出していたとすれば、少尉が部下に対し、一緒にいた住民の安全を気遣って「親元へ届けてやってほしい」と命令することはありえない。
また、古田春子の手記には、水谷少尉から「玉砕しよう」と言われたと記載があるが(乙9p758)、壕の中に兵や住民が避難していたところに米兵がやってきたという進退窮まった緊急場面でのことであり、水谷少尉も当然一緒に死ぬことが想定されているし、水谷少尉はすぐに「自分が命令をくだすまでは絶対に自決をしてはいけない」と言を改めている。そして、その後古田春子は現実に生き残ることができたのである。
 宮里トメの手記にも、米軍から逃げるため阿佐部落に向かう途中に会った兵隊に「そこは米兵がたくさん上陸しているので下の方に逃げなさい」と言われた(乙9p735)との記載がある。
 さらに、小説新潮1988年1月号『第一戦隊長の証言』(甲B26)においては、筆者の本田靖春は、次のような宮城初枝の証言を紹介する。
「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さんたちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから−と励まされました」(p305)
そして本田は、次のようにいうのである。
「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう。」(p305)
 (2)住民に手榴弾を渡したり万一の場面の自決を示唆したりした兵士の言動
 被告らは、梅澤部隊の兵士が住民に手榴弾を渡したり、万一の場面での自決を示唆したりしたことが、《梅澤命令説》を裏づけるものであるとする。
 確かに、「万一のときには自決を」などと兵士が住民に対して述べたとの証言は、前記のとおり複数あり(宮平春子コメント〈乙53〉、上洲幸子陳述書〈乙52〉、宮里育江陳述書〈乙62〉)、宮城初枝も、昭和20年3月26日夜に弾薬箱を運ぶよう内藤中尉に指示された際、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と言われて手榴弾1個を渡されている(乙50p17等)。
 前記のとおり、梅澤部隊は住民に対し「できる限り生きよ」と指示したのであるが、自決を示唆したり手榴弾を渡したりする行為は、一見、それと相反するように見える。
 しかし、そうではない。「いざとなったら自決できる手榴弾があるから、あるいは自決という方法で自分の尊厳や貞操を守ることができるから、安心して最後まで生き延びる努力を続けられるということ」なのではないか。
 その意味で、「最後まで生き延びろ」ということと、「いざとなったら手榴弾で自決せよ」ということは全く矛盾しない。そして、かかるメッセージは、逆に「自決命令」とは全く両立しないのである。
この点、曽野は、沖縄本島のエピソードを引き、下記のように述べるが、近い趣旨の理解であろう。
「これによると、もはやあちこちで銃や手榴弾での自決の音が花火のように鳴り響いていた中で、兵隊は、女学生に逃げろといいながら自決用の銃を手渡しています。」
「兵隊は、非戦闘員の娘には『逃げろ』と言ったのです。それが極く普通の反応だったのでしょう。しかし、そう言いながらも、それも不可能な状況の中では、娘たちが敵の手にかかって拷問に遭ったり凌辱されたするよりは、自決させた方がいいのだ、という疲れ切った温情もあったのでしょう。」(甲B98p68)
 また、慶良間列島で兵士が手榴弾を住民に渡したとされる行為に関し、小林よしのりは下記のように述べる(甲B87p71)。想定している場面やニュアンスは多少違えど、「住民を思えばこその手榴弾交付」という点は同じである。
「ひょっとして沖縄出身の兵隊が『敵に惨殺されるよりはいっそこれで』と、手榴弾を渡したかもしれない。だがこれは、あくまでも『善意から出た関与』である。」
(3)小括  
座間味島での出来事に関する証拠をトータルに検討し、上記(1)及び(2)のような検討をしたときに浮かび上がってくる「梅澤部隊の行為の総体」は、自身らは命を捨てる覚悟で米軍と戦いつつ、民間人であり世話にもなってきた住民たちについては、守ってやる戦力も戦術もないものの、「何とかできる限り生き延びてもらいたい」と考え、場面により、隊員らがそれぞれそのために住民に働きかけたという姿ではないだろうか。
 8 まとめ 
以上、これまでの原告及び被告から出された各資料、本人尋問や証人尋問の結果を子細に検討したとき、座間味島における隊長命令の不在は、完全に明らかになっているのである。
 これだけの根拠が積み上げられているにもかかわらず、社会や報道場面においては、「軍命令の存否についてはいまださまざまな議論がある」などと語られることも多い。強い政治的色合いを帯びた問題ゆえに、真実がストレートに認められない、語られないということなのであろうが、デマの流布や誤報の被害を受けてきた原告梅澤にとっては、永年の汚名を晴らしたいという切実さは、このテーマの政治問題化とは全く無関係の、人生の悲願である。
 政治や社会的圧力を完全に排して、多くの証拠の緻密な評価検討と当然の経験則にのみ基づき、公正に事実を認定するのは、司法の役割であり、使命である。座間味島における隊長命令の不在が公的に認定され、原告梅澤の毀損されてきた名誉が回復されることを、改めて強く求めたい。
author:南木隆治, category:-, 02:38
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面1の16 『第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在』
第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在
 1 赤松命令説の問題の所在 
渡嘉敷島において発生した住民の集団自決については、かつて赤松隊長から発せられた《部隊の行動を妨げないため、また、部隊に食糧を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ》との無慈悲な命令によるものだとする《赤松命令説》が定説とされていた。
かかる《赤松命令説》の記述は、『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)(以下『戦闘概要』と呼ぶ)、『秘録沖縄戦史』(昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史8巻』(昭和46年)(乙8)に認められる。
《赤松命令説》に対し、赤松隊長自ら『私は自決を命令していない』(昭和46年)(甲B2)と題する手記を発表して異議を唱えている。  
2 赤松命令説の成立
(1)『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)の記載
ア 「翌26日の午前6時ころ米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。―中略―住民に対する赤松大尉の伝言として〈米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう〉ということも駐在巡査から伝えられた。」(乙2p33)。
イ 「同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けない自決命令が赤松からもたらされた。〈こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、軍に出血を強いてから、全員玉砕する〉というのである。」(同p 34)。
ウ 「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍は最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、自給態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉〈沖縄出身〉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」(同p36)。
(2) 『戦闘概要』(昭和28年)(乙10)の記載
ア 「昭和20年3月26日、敵は海空援護の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始したが、赤松隊は西山陣地に引っ込んだ。」「27日夕刻、駐在巡査安里喜順を通じて住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」(同p12)。
イ 「昭和20年3月28日午前10時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地に集まったが、―中略―住民の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。」「危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた」「老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p12,13)
(3) 『慶良間島・座間味村及び渡嘉敷村「戦況報告書」戦争の様相』 と呼ぶ(乙3)の記載
ア 「3月27日夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された」(同p 22)。
イ 「28日午前10時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集まった。―中略―瞬時にして老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p23) 。
ウ しかし、『戦争の様相』には赤松隊長の自決命令は記載されていない。
(4) その後の出版物の類似性
その後に出版された『秘録 沖縄戦史』(昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史 8巻』(昭和46年)(乙8)の記載は、同様に『鉄の暴風』『戦闘概要』や『戦争の様相』を下敷きにして記述された。
(5) 本件で問題になる『太平洋戦争』『沖縄問題二十年』『沖縄ノート』もこれらの記載をもとに作成されたものである。
3 赤松隊長の反論
(1) 『私は自決を命令していない』
自決命令をだしたとされる赤松隊長は、『私は自決を命令していない』と題する手記を執筆し、自決命令を出していないと明言する(甲B2・『潮』昭和46年11月号)。
ア 「〈昭和20年3月〉26日夜、私たちは寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が上陸は多分明日だと伝えると〈では住民は?住民はどうなるんですか〉という。正直な話26日に特攻する覚悟だった私には住民の処置は頭になかった。そこで〈部隊は西山の方に移るから、住民も終結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう〉と示唆した。これが軍命令を出した、自決命令を下したと曲解される原因だったかも知れない」(同p216下段末尾からp217上段) 。
イ 「27日、米軍の上陸開始、28日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれ陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。」29日になって(住民が)自決したことが分かった(同p217 中、下段) 。
(2) 赤松隊長の「血の叫び」
   ア 赤松隊長は、「村当局がまとめた戦記がマスコミの目にとまるや次々と刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになった。戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。かれらの書物を孫引きして、得々として良心的な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。
イ そして、「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか〉とみずから「血の叫び」を訴えている(同p221)。
4 赤松命令説の破綻 
(1) 『ある神話の背景』の内容
曽野綾子は『ある神話の背景』(昭和48年)(甲B18)で赤松命令説の疑問点を明らかにした。
ア 『鉄の暴風』、『戦闘概要』に赤松隊長の集団自決命令は記載され、これらが、その後の書物に子引き、孫引きの形でそのまま引用された。
イ 軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのが沖縄タイムスの『鉄の暴風』、これを基に作成したのが『戦闘概要』である。
『戦闘概要』に『鉄の暴風』と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が『戦闘概要』に見られることなどをその理由としてあげる。さらにこれらをもとに作成されたものが『戦争の様相』(乙3)であるとする(甲B18p48) 。
ウ そして、『戦闘概要』に記載のある自決命令が『戦争の様相』に記載されていないことについて、村が作成した資料にこれほど重大な事実が、不注意で欠落することはありえない。『戦争の様相』作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものである(甲B18p48) 。
そうすると渡嘉敷村でも隊長命令がなかったことは認めていることになる。 
エ さらに曽野は米軍上陸の期日昭和20年3月27日をこれら3つの資料は3つとも同じく3月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18p49)。米軍上陸という重大な日を間違えるようでは戦史としての信頼性は全くない。
   オ 最初の資料『鉄の暴風』は太田良博が当時座間味村の助役の山城安次郎と南方から復員した宮平栄治の2人から取材して作成した。宮平は事件当時南方にあり、現場を見ていない。また山城が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である(甲B18p50,51 ) 。
事情は聞いたとしても、しょせんは伝聞証拠である。しかも太田はこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷の集団自決を含む沖縄全体の戦史を3ケ月調べ、3ケ月で作成したのである(甲B18p51)。その結果、沖縄タイムス社の役員牧志伸宏みずからが、調査不足があったことを認めている程である(甲B10)。
カ 決定的なのは赤松元隊長の副官知念元少尉の話である。『鉄の暴風』に隊長命令説を裏付けるくだりとして「3月27日に地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は〈持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している〉とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」と記載する(乙2p36) 。
しかし、曽野が昭和47年7 月に那覇で会った際、知念元少尉は「地下壕はなく、将校会議が開かれた事実もない」と否定した。加えて知念元少尉は「昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切インタビューを受けたことがない」と明言した(甲B18p112,113)。尚、知念元少尉は法廷においても同旨の証言をしている(知念調書p6,9)。
結局、『鉄の暴風』は知念元少尉に取材せずに知念元少尉の内面的経験を記載したことになる。これでは隊長命令を決定的に裏付ける事実が存在しないことになり、赤松命令説が虚偽であるといわれても仕方がない。
   キ また自決に失敗した村民に赤松部隊が治療をしている事実がある。古波藏(米田)村長もこの事実を認めるし、若山元衛生軍曹は治療が「軍医や隊長の意向であった」ことを認めている(甲B18p121)。
自決命令が出ていたならば、治療をするはずがないのであり、赤松部隊が負傷者の治療をしたことは、自決命令が出されていない何よりの証拠である。
author:南木隆治, category:-, 02:47
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面1の17
5 赤松命令説の削除と訂正
『ある神話の背景』の出版(昭和48年)は、決定的な影響を及ぼし、赤松命令説を記載した書物からは隊長命令が削除され、出庫終了による出版停止がされた。また研究者の間では、『ある神話の背景』により「赤松隊長の自決命令は確認できない」という評価が定着した。
(1) 『沖縄県史10巻』(1974年)(昭和49年)
   『沖縄県史第8巻』(1971年)(昭和46年)には「赤松大尉は〈住民の集団自決〉を命じた。」と記載されていたが(乙8p410)、『沖縄県史10巻』では、「西山陣地の北方にいくと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」と自決命令が削除された(乙10-689,690頁) 。
県史から自決命令が削除されたことの意味は重大である。
(2) 『沖縄問題20年』(昭和40年)(甲A2)
  『沖縄問題20年』では、「住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で〈持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している〉と主張した。」と記載されていたが、『ある神話の背景』を契機に出庫終了で出版されなくなった。『ある神話の背景』により自決命令の虚偽が露顕した結果であることは争う余地がない(被告準備書面(3)の第2の11の(2))。
(3) 『沖縄戦を考える』(昭和58年)
さらに、沖縄の歴史家大城将保(嶋津与志)は『沖縄戦を考える』(昭和58年)で、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の神話に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説を覆した。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などをたんねんに指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言とをつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし(甲B24p216)、隊長命令否定説に立つ曽野の『ある神話の背景』を高く評価した。
ところが、その後大城は、前記「今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」部分が引用されることについて、「勝手に引用して、いかにも曽野説を積極的に指示しているかのような我田引水の歪曲をほどこしている」と批判し、さらに「兵事主任の手榴弾配布を捉えて、手榴弾を民間人に配るということは明らかに自決命令である。また軍隊の規律や指揮系統からして最高責任者の赤松隊長がこの事実を知らないはずがない。」と言い出した(乙44)。
しかし、これは記述についての具体的な論証がないまま論難し、争点ずらしを図るものである。また、大城は『沖縄戦を考える』では、さらに「私が軍の責任があったという場合、それは軍の作戦方針とか、軍隊の論理のことを言っているのであって、けっして一般将兵の個々人を指しているのではないことはご承知願いたい」と記載していた(甲B24p223)。そうであれば、隊長命令がなかったことを前提にしての立論という他はないのであり、結局、大城は、沖縄での批判に晒されて自説をねじ曲げたことは明らかである。
(4) 『太平洋戦争』(昭和43年・初版本)
   昭和43年に発行された『太平洋戦争』初版本では「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、従順な島民329 名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。」と記載されていたが(甲B7-213頁)、第2版(昭和60年)でも、その後の『太平洋戦争』でも、「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、」の部分が削除された(甲A1p300)。
(5) 仲程昌徳著『沖縄の戦記』(昭和57年)
昭和57年に発行された仲程昌徳著『沖縄の戦記』は、『ある神話の背景』について、
ア 「本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって命令されたという集団自決神話をつき崩すということであった。そしてそれは、確かに曽野の調査が突き進んでいくに従って疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう(甲B98p145)。
イ 「曽野綾子が「『ある神話の背景』で書こうとしたのは、赤松隊長の自決命令が、当事者たちによる証言からではなく、直接現場にいなかった二人からの伝聞証拠によって書かれていたこと、及びその後の集団自決に関する記載が、疑うこともせずに『鉄の暴風』を下敷きにしていることの誤りを指摘し、赤松隊長説を否定していくことにあった。曽野は、しかし、その記載の誤りを正し、赤松神話を崩壊させることによって終わったのではなく、同時に集団自決とのかかわりで問われる「責任」の問題をめぐって、沖縄側からなされる『責任』追及がいかに不合理で、現代的な思考によって行われているかという疑問も呈しているとし(同p154)、
ウ 「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題をとり挙げる場合の一つの根本的な不幸に出くわすはずである。それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土をすこしでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだ、というまことに単純な論理である。赤松隊の人々に、一分でも論理を見出そうという行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。」と沖縄に対する曽野の批判を取り上げて『ある神話の背景』の評価を締めくくる(甲B98p154)。
(6) 渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』(昭和62年)
昭和62年に渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』には赤松隊長から自決命令が出たという記載はない。渡嘉敷島民8人分の体験記録が記載されているが、何れにも赤松隊長の自決命令は記載されていない(甲B39)。
事情を知る島民に直接事情を聞けば、赤松隊長の自決命令はなかったことが自明になったということである。
6 太田良博の反論の顛末
『ある神話の背景』で赤松命令説を決定的に批判された『鉄の暴風』の著者太田良博は昭和60年4月、沖縄タイムス紙上に反論を掲載して挽回を図ったが、曽野の再反論を受け完敗し、『鉄の暴風』の虚偽は白日のものとなった(甲B40-1〜10)。
太田は、「私は赤松の証言を信じない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はない」と主張するが(同4)、曽野は「この人は信用できる。この人のことは信用できないという感情的決めつけには問題がある。事実が何であったかこそ重要である。」と疑問を提起する(同13)。そして太田氏が知念は本当のことを言わないと批判しながら、『鉄の暴風』の中の記述で『事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』と赤松隊長が語るのを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」(乙2p36)と記載したことに太田は曽野から分裂症かと激しい批判を受けたのである(同13)。
結果的に、赤松命令説が全くの虚構であったことを『鉄の暴風』の著者みずからが明らかにしたのである。
尚、詳細は原告準備書面(5)の第4の2以下参照
author:南木隆治, category:-, 08:56
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面1の18
7 手榴弾交付=自決命令説について
(1) はじめに
『ある神話の背景』(昭和48年)の周到な調査と真相に肉薄する情熱は自決命令がなかった事実を白日のもとに晒した。それは当然に集団自決が赤松隊長の命令で敢行されたと主張して来た人達、殊に沖縄の言論界に困惑を生じた。
そこで隊長命令による集団自決説の維持のため必死の巻き返しが図られた。
その初めは、富山真順の語る手榴弾交付説である。すなわち、「昭和20年3月20日に渡嘉敷島の17才未満の少年と役場の職員に〈1発は敵との戦いに1発は自決用に〉と手榴弾が配られた」というものである。
それまで、渡嘉敷島での集団自決の自決命令は昭和20年3月28日に出されたことを前提に論争されていたが、新たに3月20日に手榴弾を配ったことを根拠に自決命令があったとするものである。
しかし、富山真順は何度も沖縄戦の資料に登場するが、昭和63年まで一度も昭和20年3 月20日の手榴弾配布を明らかにすることはなかった。
(2) 富山真順の証言の変遷
ア 例えば、富山真順が最初に登場する『戦闘概要』(昭和28年3月28日付)(乙10)では手榴弾のことに全く触れていない。
イ また星雅彦のルポ「集団自決を追って」(『潮11月号』(1971年)(昭和46年)でも手榴弾については全く触れられていない(甲B17p212上,中段)。
ウ 同号の『潮』所収の富山真順の手記では「幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』と言われた」と記載されており、手榴弾の配布があった事実は全く出て来ない(甲B21p122)。
エ 渡嘉敷村史資料編(昭和62年3 月31日出版)では富山真順の戦闘体験の手記があるものの、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くない(甲B39p369 〜372) 。
(3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場
ところが、手榴弾配布=自決命令説が東京地裁の家永訴訟で昭和63年に唐突に公言された。これは、渡嘉敷島の隊長命令がなかったことが定説化しつつあった流れを、揺り戻す試みとして持ち出されたものである。
ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日)
「集団自決が起きる数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍の多分兵器軍曹といっていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持ってきて、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。1人に2個ずつ、それはなぜ2個かと言いますと敵の捕虜になる危険性が生じたときには、1個は敵に投げ込んで、あと1個で死になさいと、さらに集団自決の現場では、それに追加されてもう少し多く手榴弾が配られていると。」(乙11p287,質問57への回答)
イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日)
     「3月28日に集団自決が行われた。米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざという時にはこれで自決するように命令を受けていた。」(乙11p53,質問89への回答)
「渡嘉敷村史の編集を担当しており、1972年〈昭和47年〉以来の調査で言いましても、20年近い調査活動をやっている中で曽野さんの説を覆す反証が出てきている。兵事主任の証言を得ている。赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろと命令を出している。」(乙11p69,質問111への回答)。
ウ 曽野綾子の反論(昭和63年4月5日)
   (ア) 曽野は「村の兵事主任(富山真順)に対し、昭和20年3月25日(ママ)に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」との原告代理人の質問に、「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と証言した(乙24p218,質問89に対する回答)(同p220,質問96に対する回答)。
このことから、件の非常招集が『ある神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかである。
   (イ) 富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを話されたとしたら、「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」(乙11p 220,質問94に対する回答)、「そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」と答え(同,質問95に対する回答)、そのような事実がなかったことを曽野は証言する。
   (ウ) 曽野が事実を察知したならば、まず富山真順にあって話を聞き、さらに『ある神話の背景』にも記載したことは確実である。曽野の証言を、偏ったものとする批判があるが、大城将保が「今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし、仲程昌徳が「完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう」として曽野の執筆姿勢の客観性と真摯さを高く評価している事実からすれば、これら批判は、その根拠も示さず、まさに主客転倒の批判をしているにすぎない。
(4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日)
富山真順が、手榴弾を配った事実について曽野の調査時に全く明らかにしていなかったことと、渡嘉敷村民の誰も、富山真順の話を知らなかったことが曽野の証言から判明した。富山真順の手榴弾交付=自決命令説が捏造の疑いが濃厚となったことから、手榴弾配布命令説を補強するために朝日新聞に手榴弾交付の記事が掲載された。昭和63年6月16日付「17才未満の青少年や役場の職員に昭和20年3月20日に非常召集を掛けて役場に集まらせ、1発を敵に、1発を自決用に手榴弾を配った」という記事である(乙12)。
(5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説
ア はじめに
    1990年(平成2年)3月31日に渡嘉敷村から発行された渡嘉敷村史通史編は、「渡嘉敷の兵事主任であった富山真順(旧姓新城)が自決命令があったことを明確に証言した。」と記載している(乙13p197)。
村史の該当箇所の執筆者安仁屋政昭は「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえない。―中略― 住民が密集している場所で、手榴弾が実際に暴発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と解説した(乙13p197下段〜p198上段)。
しかし、それは執筆者である安仁屋の評価であって「事実」ではない。安仁屋は、手榴弾交付=自決命令という詭弁的修辞を使って命令を強弁しているにすぎない。問題は自決命令があったか否かである。
イ 富山真順が当時これほど重大な事実を、経験していたのであれば、村史資料編の富山真順の戦闘体験の手記にも、その余の資料にもその事実が記載されない理由はない。村史資料編等を含めてそれまでその事実が全く、記載されなかったのは、富山真順にその体験がなかったからに相違ない。
ウ 渡嘉敷村史資料編(甲B39)と同村史通史編(乙13)の戦争編は、何れも安仁屋政昭が執筆した。昭和62年作成の村史資料編中の富山真順の手記に、全く影も形も無かったものを「17才未満の少年らの呼集、手榴弾の配布、自決の指示」として村史通史編に書き込んだのは安仁屋政昭教授、富山真順、朝日新聞による隊長命令による集団自決説維持のために工作がされた疑いが濃厚である。
エ 殊に安仁屋は第3次家永訴訟の東京地裁の審理に証人として供述しており、赤松隊長の自決命令が虚偽として定着した状況を打破するために手榴弾配布説の流布を企図したと考えられる。
しかし、手榴弾が住民の手に渡ったことを、即自決命令に結び付けることはいかにも短絡的で根拠がない。
(6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実
しかし、現実には軍の意思によらずに手榴弾が住民の手に渡っていた事実がある。
ア 小峰園枝氏は「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」と語っている(甲B39p374 )。
イ また金城武徳の証言には「だからその手榴弾をですね、結局泥棒しているわけですよ。だから隊長そう言ってましたよね。大阪で。兵器係から手榴弾が2箱盗難にあっていますという報告があったそうです。」「軍が手榴弾を配布したわけではなく、」「一番悪かったのは、防衛隊なんです。防衛隊が盗んできた。」というものがある(甲B52の2p16下から5行目〜p17の2行目まで)。ここからは手榴弾が大量に盗み出されていたことが窺える。
ウ また、古波藏村長がどうするかという話になったとき、「みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになって、一人の防衛隊が、〈友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか〉と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった」という証言もある(甲B17p210中段末尾から下段に掛けて)。
エ これらの事実は、防衛隊の意思で手榴弾を取得できるほどに管理が杜撰になっていたこと、指揮命令系統も崩壊した混乱の中にあったことを物語る。
オ またさらには「私の弟が自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました」(乙9p788上段)という例もある。
これは住民の手に手榴弾があっても、それだけで村民が死ぬものではないことを明らかにしている。手榴弾の交付は住民に自決を強制する命令にはなりえないのである。
(7) 3月20日時点での赤松隊の状況
ア はじめに
従来は昭和20年3 月28日にあったか否かで議論された赤松隊長の自決命令説が破綻したことから、自決命令説に立つ者は、昭和63年6月16日の朝日新聞以来自決命令を昭和20年3月20日に遡らせて主張するようになった。
イ しかし、赤松部隊は3月20日の時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、守備隊に転身し、持久戦を闘うことは全く予定していなかった。また出撃する特攻隊であるから当然に「村民のことには全く関心をもっていなかった」(甲B18-p36)。
赤松部隊は3月25日までに米軍の攻撃で舟艇の大部分を喪失し、その後止むなく守備隊に転身し持久戦のために山に登ったのである。
ウ また、32軍も赤松部隊も3月23日の空襲とそれに続く艦砲射撃まで沖縄へ西方から上陸する米軍を背後から攻撃することを予定しており、渡嘉敷島に米軍が上陸することは予想していなかった(乙11p51の上部注(29)(皆本調書p2)。
それにも拘わらず、昭和20年3月20日の段階で役場の職員である兵事主任が米軍上陸を予測して手榴弾を配ったことになり、富山真順の話はあり得ない荒唐無稽なことである。
エ 仮定の話として赤松部隊が特攻のために出撃し、村民に手榴弾が残され「一発は敵をやっつけ、一発は自決のため」ということだったとしても、「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に応えたものに過ぎない。しかし、将兵の意思は出来るだけ生きのびよとの思いであったことは、幾多の事例が証明している。そうであれば、手榴弾の交付=自決命令とは言えない。
(8) 手榴弾交付説の破綻
ア はじめに
原告はこれまで『ある神話の背景』の出版で隊長命令がないことが定着した状況を打破するために仕組まれた工作の一環としての手榴弾配布説を主張してきた。しかし、これらの工作は露顕した。
イ 金城重明の証言
   (ア) 金城重明は、平成19年9月11日の所在尋問で「昭和20年3月20日の手榴弾の配布は渡嘉敷の役場で行われた。阿波連の住民であった金城重明は呼ばれていないし、阿波連の人は誰も手榴弾の配布を受けていない。渡嘉敷の同じ年代の誰からもこの時の手榴弾交付を聞いたことはない」と証言した(金城調書p26〜30参照)。
   (イ) さらに「富山真順氏が兵器軍曹らから手榴弾を配られた話は家永訴訟の打合せの中で、安仁屋政昭氏から教えられて初めて知った。そして富山真順と連絡をとった」と証言した(同調書p25〜27参照)。
   (ウ) 昭和20年3月20年の手榴弾の配布の話をそれまで一度も聞いたことがなかったにも拘わらず、昭和63年に突然家永訴訟の打合せの中で安仁屋氏から情報として提供されたということは、あまりに唐突で不自然である。
しかも阿波連の人は呼ばれておらず、渡嘉敷の青年と役場の人だけに手榴弾が配られたという事実は命令の一貫性から考えてあり得ない。
     またその事実を昭和63年まで一度も聞いたことがなかったし、同年代の者からも全く聞いたことがないというのであるから、昭和63年の時点で捏造された可能性が強い。
author:南木隆治, category:-, 09:04
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の19
8 隊長命令不在説の定着
隊長命令不在説は以下のとおり定着した。
(1) 大江志乃夫著『花綵の海辺から』(1990年)(平成2年)
大江志乃夫は「赤松隊長が〈自決命令〉を出さなかったというのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を配ったのは、米軍の上陸前である。艇進隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長が配ることを命じたかどうか、疑問が残る。防衛隊員のリョーヘイさんの語るところでは赤松隊長は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていた」のであり、自決命令を出せるはずがないとする(甲B36p27)。
これは、沖縄の歴史家も赤松隊長の自決命令、手榴弾配布ともに考えにくいことを明確に認めたものである。
(2) 『沖縄県警察史』の安里証言(1993年)(平成5年)
ア 赤松隊長が西山に移動せよという命令を出したと主張し、これを自決のための命令と主張する説がある。
しかし、これは村の駐在巡査安里喜順が「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。―中略― 村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。」と状況を述べていることから、事実ではない(甲B16p774)。
イ 安里喜順は「米軍が上陸したら自分一人で村民をどのようにして何処に避難誘導しようかと考えたが、一人ではどうすることも出来ないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。赤松隊長は〈住民はなるべく部隊の邪魔にならないようにどこか静かで安全な場所に避難し、暫く様子を見ていたらどうか〉と助言してくれた。私は村長ら村の主だった人を集めて相談し〈なるべく今夜中に安全な場所を探してそこに避難しよう〉と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。― 中略― 私は、住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので部落を出発する時からもう平常心ではない。集まった防衛隊員たちが〈このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだほうがよい〉と言いだして村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようということになった。私は玉砕させるために連れてきたのではない、戦争は今始まったばかりだから、玉砕することを当局として認めるわけにはいかないといった。しかし、言っても聞かなかった。そこで、〈決行するのはまだ早いから、一応部隊の所に連絡をとってその返事を待って、それからでも遅くないのではないか〉といって部隊長のところへ伝令を出した。その伝令がかえって来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて急に撃ち合いが激しくなった。そしたら住民は友軍の総攻撃がはじまったと勘違いして、方々で〈天皇陛下万歳、天皇陛下万歳〉と始まった。防衛隊員のもっている手榴弾を使って玉砕した。手榴弾が不発が多くて玉砕出来ない人たちがいて。友軍の機関銃を借りて自決使用としたが友軍は貸してくれない。友軍から〈危険だから向こうに行け〉と言われて元の場所に帰ってきた。」というものである(甲B16p773〜p775)。
   ウ 自決の報告をきいた赤松大尉は〈早まったことをしてくれた〉と言われた(甲B43p46下段) 。
   村の駐在という立場で公正、客観的に事実が述べられており、安里巡査の証言からは赤松隊長が自決命令を出した事実は全く窺えない、また赤松隊長が自決のために手榴弾を住民に配った事実もないことは明確である。
    『光の泉』で1996年(平成8年)にも同旨を再言している(甲B43)。
(3) 金城重明著『沖縄戦を心に刻んで』(1995)(平成7 年)
     金城重明は『沖縄戦を心に刻んで』で「私どもは、刻々と迫りくる命令を待ちました。軍から命令が出たらしいとの情報が 伝えられました(この事実関係については議論がある) 。また既に米軍は300M近くまで迫っているとの知らせもあったようです。張り詰めた緊張感が破裂しました。村長のもと『天皇陛下バンザイ』が三唱され、いよいよ第一の集団自決が起こったのです)(甲B42p52)。
ここでは、「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました〈この事実関係については議論がある- ママ〉」と甚だ曖昧に表現されており、命令が出たことすら議論があることを金城重明は認めている。
自決の現認を自認したという者が、自決命令を確認出来ないのか不可解という他はない。結局、金城重明は自著『沖縄戦を心に刻んで』において自決命令がないことを認めているのである。
(4) 『沖縄戦ショーダウン』(1995年)(平成7年)
沖縄出身の作家上原正稔は沖縄の新聞琉球新報紙上で連載記事を掲載した。
表題『沖縄ショーダウン』では上原は金城武徳や大城良平を皮切りに安里喜順、知念朝睦を取材した結果、「赤松隊長は命令をだしていないこと」、3月28日ウアーラヌフルーモを埋め尽くした住民と防衛隊は防衛隊から手渡された手榴弾で、天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬとだれも疑問を持たなかった。夕刻、古波藏村長が立ち上がり、〈天皇陛下万歳〉を唱え、皆、両手を上げて斉唱したことを突き止める。さらに安里喜順の「赤松さんは人間の鑑〈かがみ〉です。渡嘉敷の住民のために一人で泥をかぶり一切、弁明することなくこの世を去った。私は本当に気の毒だと思います。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」と要請されたことを明らかにする。
そして上原は、取材の結果、「国の援護法が〈住民の自決者〉に適用されるためには〈軍の自決命令〉が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だから一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認する。上原は、「一人の人間をスケープゴート〈いけにえ〉にして〈集団自決〉の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い。」と自決命令説の核心をついた批判を展開する(甲B44p3,4,5,6)。
(5) 林博史著『沖縄戦と民衆』(2001年)(平成13年)
ア 沖縄戦の研究家林博史は自著『沖縄戦と民衆』で大江志乃夫氏の『花綵の海辺から』の「赤松嘉次隊長が〈自決命令〉をださなかったのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民に配ったのは米軍の上陸前である。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたかどうか、疑問がのこる。―防衛隊員リョーヘイさんは〈赤松隊長は自分の部下さえ指揮できない状態にきてたのです〉と証言している」との部分を引用して(甲B36p27p)「なお、赤松隊長から自決せよという形の命令は出ていないと考えられる」と記載する(甲B37p 161)。
林はこれに対し「これが一体どこからでてきたのかわからないが、自決せよという〈命令〉が語られ、それを受け入れるような精神状態がつくり出されたことが重要であろう」と疑問を提起するが、どこから出たかわからない自決命令はあり得ない。軍命令説が自決を主導した者の精神的負担軽減と、援護給付金の必要から公言されるようになった背景から目をそらしてはならない。
イ 林は座間味島について「軍からの明示の自決命令はなかったが、―中略―〈自決〉を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。村の中の有力者であり、軍に協力して軍と一体化していた層である。」とも主張し、自決命令がないことを認めている(甲B37p162)。
ウ また林は慶留間島の集団自決について、「野田隊長から玉砕の訓示を受けた住民は、いざとなったら〈玉砕〉せよという意味だと受けとめた」(甲B37p165)というが、事実はむしろ反対であることが明らかである。
たとえば、慶良間島に上陸した米兵が、保護した住民になぜ〈自決〉したかと聞いたところ、15才の少年は〈日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ〉と答えた。さらに別の住民も〈かれらは脅えていた〉と答えたという。」のである(甲B37p166)。そうであれば、村民は軍の命令ではなくて、恐怖で自決をはかったことが明らかである。
エ 林は反軍主義者の立場で米軍資料を初めとする資料を駆使して集団自決に軍の責任があると主張し、唯一「told」を命令と訳したものも、意図的な誤訳であることが原告準備書面7 の第1 の4 で既に明らかにされた。
さらに、以下のとおりあまりに恣意的な米軍資料の引用からも命令の存在は怪しいのである。
例えば、ある時は 崋決せよと命じた」とし、ある時は◆崋決するように指導されていた」とし、さらには「米軍が上陸してきたときには、家族を殺せと諭されていた」とし、またぁ崟訶舛暴召辰銅殺を試みた」とし、ァ嵬唄嵜佑燭舛亙瓩蕕錣譴覆い燭瓩房決するように勧告されていた」と種々の翻訳が見られる(甲B76の4)。
沖縄戦の有力な研究家である林氏をしても隊長命令を否定せざるを得ない事実は重大であり、軍の強制による自決と結び付けようとするあらゆる試みは失敗している。
(6) 曽野綾子の正論の記事(甲B4)
曽野は『ある神話の背景』(昭和48年)から30年経過した平成15年『正論9月号』で「私ができる限りの当事者に当たっても、赤松隊長が自決命令を出したという証拠は何処からも上がってこなかった」。「3百人を越す死体が集まっていたのを見た人はいなかった。しかし、それを敢えて言わなかったのは、玉砕ということで遺族が年金をもらえれば、それでいいのではないかと思ったという。」「赤松隊長を糾弾しようとする多くのマスコミや作家たちは、私が私費で出来た基本的調査さえせずに、事件の日にちさえも取り違えた記録を一つの日本史あるいは日本人の精神史として定着させようとした。その怠慢か欺瞞かが、やっとはっきりしたのである。」
「調査が終わった後、私は生涯沖縄に行くのをやめようと思っていた。この問題に関して、沖縄で発行されている二つの新聞が徹底して私を叩き続けたことを私は忘れたかったのである。沖縄の人たちは、この二つの新聞だけが地域を独占している限り、自由で公正な思想とニュースをうけることはないだろうと感じた」と語っている(甲B4)。
曽野は出版から30年経過した後でも隊長命令をだした証拠がないこと、関係者は遺族が年金をもらえれば、敢えて自決の有無を騒ぎ立てる必要はないと思っていた実情を明らかにすると同時に、現地調査もしない怠慢により虚偽の事実が捏造された経緯を明らかにしてマスコミや作家の姿勢を公正でないと批判する。
(7) 山川泰邦著『秘録 沖縄戦史の改定』(甲B53)(乙7)
沖縄県警出身の山川泰邦は、昭和33年と昭和44年に『秘録沖縄戦記』(各乙4,乙79)を出版していた。それらには具体的に原告梅澤及び赤松大尉による自決命令が記されていた(乙7p156〜、p147〜)(この乙7を『秘録沖縄戦記』の「元版」という)。
ア この『秘録 沖縄戦記』は長く絶版になっていたが、平成18年10月に、著者山川泰邦の長男であり那覇市役所助役職にあった山川一郎が発行者となり、復刻された(甲53)。
注目すべきなのは、この復刻版においては、元版に記載されていた原告梅澤及び赤松大尉による自決命令の記述が、完全に削除された(甲B53p187〜189)(甲B53p179)。
この重大な改訂の説明として、復刻版(甲B53p172)は「集団自決」の章の冒頭に、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(1974年)並びに『沖縄史料編集所紀要』(1986年)を参考に、慶良間列島における集団自決等に関して、本書元版の記述を一部削除した。なお集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい。」(同p172)と断り書がある。
イ 参考にした『沖縄県史第10巻』(1974年)は、渡嘉敷島において「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」とする『沖縄県史第8巻』(1971年)(乙8p410)を訂正し、「どうして自決するような破目になったか、知る者はいないが、だれも命を惜しいと思ってはいなかった」と述べている(乙9p690)。『秘録 沖縄戦記』の復刻改訂にあたり、これを参考にしたのである。
ウ なお、この『秘録沖縄戦記』復刻版の発行は山川一郎によってなされているが、上記のような重大な内容の改訂については、著者山川泰邦が、その生前から意図していたものと解される。まず、復刻版の著者が依然山川泰邦のみとされていることからもそれは看取することが出来る。
また、山川泰邦の死去は1991(平成3)年であるが、改訂の根拠となった上記の『沖縄県史第10巻』(1974年)及び『沖縄史料編集所紀要』(1986年)の発行は、山川泰邦の生前になされており、山川泰邦が生前にそれらの新資料を入手検討したこと、その内容を受けて山川一郎にも意見(『秘録沖縄戦記』の記述を改める必要があること)を伝えていたことは確実と思われる。
オ この改訂が示すことは、《梅澤命令説》《赤松命令説》が史実の検証に耐えられず、むしろ、真実でないことが今や完全に明らかになっているということである。
このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、隊長命令あるいは軍命令によるものとはされない(あるいは根拠の不確かなものとして記述されない)のが一般なのである。赤松隊長が命令を出したとする隊長命令説、手榴弾交付説いずれも無理があり、執拗に試みる『赤松隊長命令説』は、いずれも失敗に終わっている。
    詳細については原告第8 準備書面第1 の1 〜5 を参照
(8) 産経新聞の照屋証言
ア 赤松隊長の自決命令がなかったことは今や一般に知られることとなった。
さらに何故、虚偽の自決命令説が流布したのか、琉球政府社会局援護課元職員照屋昇雄の決定的な証言もあった。
戦後琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄(82才・那覇市)の「遺族たちに戦傷病者遺族等援護法(以下援護法という)を適用するために渡嘉敷島の集団自決を、軍の命令によるとして自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」という記事が平成18年8月27日付産経新聞に掲載された(甲B35)。『正論』にも同旨の記事がある(甲BB38)。
イ 照屋は、琉球政府社会局援護課で渡嘉敷島で聴き取りを実施した。玉井村長が赤松隊長が住民に自決を命じたとする書類を作成して、日本政府の厚生省に提出し、集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったというのである(甲B35)。照屋の調査、報告は集団自決に援護法を適用する際に資料として活用された。
詳細は原告準備書面(4)第7参照(p14以下)
ウ 被告は、照屋証言が信用できないと被告準備書面(11)で弾劾した。
その根拠として照屋の社会局の援護局在籍期間を上げる。しかしこれは、全く根拠にならない。原告の提出した辞令によれば(甲B63,64,65)、照屋が援護事務業務を遂行していたことが、明らかである。
  エ 被告は甲B63〜65が提出されても、何らの反応も示さない。
被告は主張にあう人事記録のみを抽出して提出していた疑いが強い。
(9) 吉川勇助の新たな伝令による自決命令説と手榴弾配布説
ア 吉川は「軍の陣地の中から、一人の防衛隊員が村長のところへ来ました。その防衛隊員は、大声で伝令と叫びながら、古波藏村長のとなりまでくると、古波藏村長の耳元で、何事かを伝えていました。伝令の話を聞いた古波藏村長は何度もうなずいていました。伝令の話しを聞き終えた古波藏村長は奥さんの兄であった郵便局長と話しをしていたようでした。伝令が来てからしばらくたったとき古波藏村長は住民に万歳三唱するように呼びかけました。いよいよ自決するのだと思い、古波藏村長のそばを離れて家族のもとに行きました」という(乙67p3の4)。
   (ア) しかし、伝令があったという根拠はどこにもない。そもそも、徳平郵便局長が「統率力を失っていた」(乙9p767下段)と呼ぶ赤松隊長が、住民の自決を命じる余裕があったか否か疑問である。また「かりに、あの時、自決命令を、出したとしても、とても伝令が、あの場所まで辿りつけなかったんじゃないかな。」という戦闘状況からして(甲B18p129)、防衛隊が軍の陣地から伝令で走って古波藏村長のところまでたどり着けたとは考えられない。
   (イ) 伝令が来ていることに安里喜順も金城武徳も誰も気付いた形跡がないし、古波藏村長が伝令が自決命令をもって来た事実を全く述べていない(乙9p767〜)。
また仮に防衛隊が伝令としてたどり着いたとしても、弾や爆弾の音が激しくて聞き取れなかった伝令の話から、自決命令があったと決めつけるのは吉川の勝手な空想に過ぎない。
   (ウ) 吉川が「古波藏村長は奥さんの兄であった郵便局長と伝令が来た後で、話していた」というのであるが(乙67p3の4)、その徳平局長の語る経過は、「どうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名かそれに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで戦おうと主張した人もいました。特に防衛隊は、戦うために妻子を片づけようではないかといっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決と決まると女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。そういう状態でしたので、私には誰かがどこかで操作して、村民をそのような心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」(乙9p765上段・『沖縄県史10巻各論9』)というものであり、自然発生的に自決へ向かったことが強く窺われるのであり、伝令から伝えられた自決命令で自決したという吉川の証言と明らかに矛盾する。
イ さらに吉川は1個は3月23日の空襲の後に自決用としてもらったもの、もう1個は伝令が軍の陣地から古波藏村長のところへ来た後に古波藏村長からもらったという(乙67p4) 。
吉川は、昭和20年3月20日の手榴弾の配布の事実に全くふれていない。
そうすると役場の職員であり、当時17才未満でもあった吉川が手榴弾の配布を昭和20年3月20日に受けていないということになる。これは富山真順の3月20日の手榴弾配布説が根拠のないことを物語っている。
ウ 吉川は新聞では米軍が上陸した(3月27日)直前、役場を通して17才未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を2発ずつ配った。1発は自決用、1発は攻撃用という(乙70の1)。
しかし、これは3月23日の空襲の後に1発、自決の日である3月28日に1発と語っている陳述書とも異なっている(乙67p4)。
米軍が上陸した直前に手榴弾を配ったとしながら、従来議論された富山真順の3月20日を敢えて外した記載であり、新聞が富山真順の3月20日の手榴弾交付説を意識して、それに似せた記載にせんと腐心したものの、遂に吉川に3月20日の手榴弾配布を認めさせる事が出来なかったことを示している。
しかも、新聞で、米軍上陸前に2発ずつ配ったが、使途を言われたのは米軍上陸後というのも(乙70の1)、富山真順が米軍上陸前の3月20日に手榴弾は1発は自決用、1発は攻撃用として配られたというのと異なっており、新聞記事の杜撰さは明らかである。
いずれにしても、吉川のいう手榴弾の交付は富山真順が語った手榴弾の交付とは別のものである。役場の職員であった吉川が昭和20年3月20日の手榴弾の配布を認めていないことは、むしろ富山真順の主張する事実が無かったことを示す有力な証言といえる。
また、富山真順は役場職員の最後の一人の生き残りであるといっていたが、虚偽であり、富山真順の後の生き残りに吉川がいたことになる(乙12) 。
author:南木隆治, category:-, 12:16
comments(0), trackbacks(1), pookmark