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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の9
3 梅澤隊長命令説の破綻と訂正  
 (1)端緒:宮城初枝の告白
 上記のような経過で成立し定説化した《梅澤命令説》が、その後破綻し、訂正されていく流れが生じた端緒は、原告梅澤への宮城初枝の告白であった。
 その告白内容の要旨は、昭和20年3月25日の夜に原告梅澤を訪ねた村幹部ら5人の中に自分がいたこと、村幹部らが住民の自決のための武器提供を求めたのに対し原告梅澤がそれを断ったこと、戦後住民が援護法に基づく給付を受けるために真実ではない《梅澤命令説》の証言をしてきたがそれについて非常に申し訳なく思っている、というものであった(梅澤調書p8〜、甲B1p5、甲B5 p261〜、甲B26 p306等)。
 その時期については、原告梅澤は昭和57年6月とし、宮城晴美は昭和55年12月であるとし(甲B5 p261。なお、甲B26 p306では昭和56年12月16日となっている)、その点食い違いがある。乙66の2の封筒の消印は、かすれているが1980(昭和55)年とも読め、昭和55年というのが正しいのかもしれないが(梅澤調書p26)、いずれにしても、この再会と告白という重大事実の信用性に影響のあるものではない。
この再会場面については、『母の遺したもの』では原告梅澤は昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていた(ようであった)とし(甲B5 p262。宮城調書p6の証言も同旨)、『第一戦隊長の証言』では逆に、原告梅澤の方からそのことを話し始めたとされており(甲B26 p306)、この点も若干の齟齬がある。
    しかし、原告梅澤自身が、昭和20年3月25日の会談のことは忘れたことがなかったと供述していること(梅澤調書p9)、『母の遺したもの』が平成12年の執筆であるのに対し、『第一戦隊長の証言』は昭和63年の発表であって宮城初枝の記憶の新しい時期に本田靖春が直接取材した成果であること等からして、昭和20年3月25日の会談のことは原告梅澤は忘れておらず自分からそのことを再会した初枝に話し始めたものと考えるのが妥当である。
    この点については、甲B5『母の遺したもの』 p262には、
「母は、−中略−『夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元に伺いましたが、私はそのなかの一人』ですと言うと、(梅澤氏は)そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度『−中略−命令したは梅澤さんではありません』と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で『ほんとですか』と椅子を母の方に引き寄せてきた」
と書かれているが、原告梅澤が、「すぐには理解できない様子だった」のは、昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていたためではなく、突然のことで、目の前の女性が、35年以上前の記憶の中の女子青年団長であると認識するのに時間を要したためである。長い年月を経て、女子青年団長の面影の記憶は原告梅澤の中で薄くなり、またなにより、若い娘であった宮城初枝も初老の女性に変貌しているのであるから当然であろう(原告梅澤もその旨供述する。梅澤調書p10)。また、告白内容が分かっても驚きのあまり絶句する時間が原告梅澤にあったとしても自然である。「昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていた」という解釈は、母初枝の話を聞いての、宮城晴美の個人的な見解であろう
 (2)『沖縄史料編集所紀要』による訂正
 『沖縄県史第8巻』(乙8)と『沖縄県史第10巻』(乙9)の《梅澤命令説》を実質的に訂正したのが、昭和61年3月の『沖縄史料編集所紀要 第11号』(甲B14。以下『紀要』という)であった。
 この県史の訂正に至る経過を改めて整理すると、下記のとおりである(原告準備書面(2)p8〜、原告準備書面(5)p10〜、原告準備書面(7)p41〜参照)。
そもそも、昭和49(1974)年の『沖縄県史第10巻』においては、宮城晴美が手伝った聞き取り調査では、住民から「『隊長命令』という明確な証言は聞けず、記録からも削除した」(甲B5p259)にもかかわらず、大城将保は、解説において、宮城初枝手記『血塗られた座間味島』(乙6)を参考に《梅澤命令説》を記してしまっていた(乙9p698、699)。このことについて、不満をほのめかすような形で『母の遺したもの』(甲B5)の中で晴美が書いたのが、以下の部分である。
「(隊長からの玉砕命令について証言者それぞれに再確認した)その結果、『役場職員の伝令が来た』『忠魂碑前に集まれと言われたから』となり、『隊長命令』という明確な証言は聞けず、記録からも削除した。おそらく、母は私に事実関係に気づかせようとしたのかも知れない。
 ところが、『証言』としては隊長命令はなかったが、同じ『沖縄県史 10巻』のなかで、座間味村の戦争の概要を紹介した文章には母が書いた『隊長命令』がそのまま引用されたのである」(p259)
この県史の《梅澤命令説》の記述を知った原告梅澤は、昭和60年10月6日付けの大城宛書簡によって、訂正を求めた(なお、当該書簡の控えは原告梅澤において保管していないが、甲B25の1大城の書簡の冒頭に「十月六日付の貴翰を拝読しました」とあることから、同日付の原告梅澤の手紙が送付されていたことが分かる)。
 これに対し、大城は同月16日付の原告梅澤宛親書(甲B25の1)をもって、県史の記述に間違いがあれば修正をすることが可能なこと、そのためにも原告梅澤の詳細な手記(新資料)を示してもらいたいことなどを伝えた。
これに対して原告梅澤が手記を大城(沖縄県立沖縄史料編集所)に寄せ、それを受けて、大城が昭和61年3月の『紀要』にその手記を掲載するとともに、解説を加え、その中で、実質的に県史の記述を修正したのであった(甲B14)。
   被告は、県史は実質的修正などされていないと本件訴訟で主張するが、この『紀要』が実質的な県史の修正であることは、宮城晴美が『母の遺したもの』(甲B5)に下記のように書いていることからも明らかである(晴美は県の正式職員ではないものの、沖縄県教育委員会の県史編纂作業に調査メンバーとして参加するなど〈乙63p2、甲B5p258〉、県教委及び県史編纂と密接な関係のある者であり、その認識は決定的である)。
「さらに『沖縄県史 10巻』のなかで、私の母の記録を引用した『集団自決の隊長命令』説に抗議し、梅澤氏自身の『手記』を送って内容の訂正を求めた。
   −中略− 沖縄県教育委員会は『沖縄史料編集所紀要 第一一号』(一九八六年三月発行)に梅澤氏の手記『戦闘記録』を掲載することで、『沖縄県史 10巻』の訂正に変えた」(甲B5p267)
 被告は、この『紀要』(甲B14)の末尾6行部分は、大城自身がその意見を書いたものではなく、「原告梅澤の文」であるとか(被告準備書面(3)p8)、大城が「原告梅澤の結論を加筆し付加したものである」などと主張する(準備書面(7)p20)。大城自身も、当該部分を「私が電話で梅沢氏本人から同氏の結論的見解を聞き取って加筆したものです」と述べる(乙45p2)。
 しかし、当該部分は下記の内容であり、原告梅澤の文とも、大城が原告梅澤の結論的見解を聞いてそれを書いたものとも到底読めるものではない。
「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)」
  原告梅澤も、この部分について「私だったら『梅沢氏』なんて書きません」と述べ、自分がない旨断言している(梅澤調書p2)。
author:南木隆治, category:-, 02:23
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-, 2008/08/05 7:53 AM









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