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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の8 『第3 座間味島における隊長命令の不在』
第3 座間味島における隊長命令の不在
 1 梅澤命令説の問題点  
 (1)梅澤命令説
改めて、文献に登場する《梅澤命令説》がいかなるものかを確認すると、まず、『鉄の暴風』(乙2)には、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。」(p41)と《軍命令》ないし《梅澤命令》が描写されている。
 一方、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(乙4)では、《梅澤命令説》は、「梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』と。」と表現され、また、上地一史著『沖縄戦史』(乙5)では、「梅沢少佐は『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命じた」(p51)とされ、さらに、『沖縄県史第8巻』(乙8)では、「梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得る者は全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。」(p412)と書かれているが、これらは同一の内容を有するものであり、『鉄の暴風』の記載よりもより具体的である。
 (2)原告梅澤の主張
かかる《梅澤命令説》について、原告梅澤は、忠魂碑前に住民を集めて玉砕を命じた事実も、「働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ」などと住民に命じた事実も全くない、むしろ自決を考える住民に生きるよう言ったと一貫して主張、供述している。
 具体的には、昭和20年3月25日の夜、第一戦隊の壕にやってきた宮里盛秀助役ら5名の村幹部が、原告梅澤に対し住民らの自決のための弾薬などを求めたのに対し、原告梅澤は、「とんでもないことを言うんじゃないと。何ということを言うんだと。死んではいけないと、死ぬことはないじゃないかと、あなたたちは後方に下がって、明日から我々は陸戦をするんだから、後方に下がって勝手知った村の中の森林あたりに壕もあると。食糧も隠してあると。そこで持ちこたえてくれ」と、そう言ったのであった(梅澤調書p5)。
 2 梅澤命令説の成立  
 (1)『鉄の暴風』
《梅澤命令説》が初めて文献に記されたのは、昭和25(1950)年の『鉄の暴風』(乙2)である。そこには、下記の記述がある。
「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である」(p41)。
この時点では、自決をした住民の人数は52人であった。また、玉砕を命じた主体は「軍」と表現されていた。
 (2)『座間味戦記』と宮城初枝手記『血塗られた座間味島』 
 昭和43(1968)年の下谷修久『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)には、軍命令・隊長命令があった旨が、当時の座間味村村長や遺族会会長の序文にも記され、さらに、所収の宮城初枝手記『血塗られた座間味島』においては
「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」(p39)
という内容で、《梅澤命令説》が語られている。
 この『血塗られた座間味島』の《梅澤命令説》の宮城初枝記述は、座間味村当局が琉球政府及び日本政府に提出した『座間味戦記』(乙3。1957年ころ)の下記部分の引用であると大城将保の指摘がある(甲B14 p37頁)。
 「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は村の忠魂碑前に於いて玉砕する様にとの事であった」(乙3 p39)
大城は、宮城初枝にも面会し聞き取り調査を行っておりれ(だからこそ、「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している」(甲B14 p46)と大城は書くのである。また、甲B11の昭和61年の神戸新聞記事中の大城の談話には「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」とある)、引用であるという重要事実は、直接宮城初枝に確認したからこその断定であって正確なものと考えられる。
 すなわち、「戦える者は男女を問わず戦闘参加、老人子供は忠魂碑前で自決せよ」という内容をもつ《梅澤命令説》は、1957(昭和32)年ころの『座間味戦記』に初めて現れ、それが引用されて、1968(昭和43)年、公開の文献である『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)に載ったこととなる。
 (3)『秘録沖縄戦史』
 《梅澤命令説》を一般に広めることとなった重要書籍が、昭和33(1958)年の山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(乙4)である。そこに叙述される《梅澤命令説》の内容は下記のとおりである。
「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』と。然も、未だ敵は上陸せず一線も交えない中にである。従順な住民たちは老人も子供も晴れ着で死装束をして、続々集り、忠魂碑前は村民で埋まった。梅沢少佐と村長が現れているとき、自決は決行されることになっていた。」(p229)
「二十六日午前十時、物凄い掩護射撃のもとに上陸が始まった。−中略−梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは、そのまま実行したのである。」(p230、231)
この書籍では、自決した住民の数は155人となっている(p228)。
この山川泰邦の記述は『座間味戦記』の引用である(大城将保も同趣旨を述べている。甲B14 p37下段)。具体的には、宮城晴美が『母の遺したもの』(甲B5)でこう書いている。
「(山川泰邦)氏もそのなかで座間味島の『集団自決』の悲劇について、座間味村役所から陳情で出された『座間味戦記』を引用し、隊長が命令したものだと明示した。この本は、座間味村同様県内の各市町村長が『援護法』適用の陳情に際して提出した公的文書を土台に書いたもので、信憑性の高い史料として評価された。」(p256)
「『秘録・沖縄戦記』は県内外で話題の本となった。」(p256)
 この『秘録沖縄戦史』の中身は、同じ著者が内容を改訂した昭和44(1969)年の『秘録沖縄戦記』の元版(乙7)でも、大きな内容の変更はないまま維持されている(p156、158)。
 (4)『沖縄戦史』、『沖縄県史第8巻』、『沖縄県史第10巻』
 昭和34(1959)年の上地一史著『沖縄戦史』(乙5)でも、「梅沢少佐は『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命じた」(p51)とされており、叙述される《梅澤命令説》の内容は『秘録沖縄戦史』(乙4)とほぼ同様である。
 公的な文献として《梅澤命令説》を記し、《梅澤命令説》の定説化をさらに強化したのが、昭和46(1971)年の琉球政府編集の『沖縄県史第8巻』(乙8)であるが、下記のとおり、その内容は、『秘録沖縄戦史』(乙4)の要約といってもよいものであった。大城将保も、『沖縄県史8巻』は『秘録沖縄戦史』を参考にして命令内容を引用したとしている(甲B14 p37上段)。
「・・・翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに働き得る者は全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。−中略−三月二十六日午前十時、アメリカ軍は艦砲の掩護のもとに上陸してきた。その夜、村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した。」(乙8 p412)
 さらに、昭和49(1974)年の沖縄県教育委員会編集の『沖縄県史第10巻』(乙9)では、大城自身が《梅澤命令説》を記したが(p698、699)、これは、前記の『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)所収の宮城初枝手記『血塗られた座間味島』を参考にして書いたものであった(甲B14 p37上段、下段)。
 (5)整理
 大城将保の分析を参考にして整理すると、主要文献の《梅澤命令説》の引用の経過は、下記の順序ということとなる。すなわち、『座間味戦記』が《梅澤命令説》の定説化の淵源なのである。
『座間味戦記』(乙3)→宮城初枝手記『血塗られた座間味島』(『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)所収)→『沖縄県史第10巻』(乙9)
『座間味戦記』(乙3)→『秘録沖縄戦史』(乙4)→『沖縄県史第8巻』(乙8)
author:南木隆治, category:-, 02:21
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