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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の7
4 被告大江の供述について 
  ⑴ 被告大江が主張する「命令」の意味について
    さて付言すると、被告大江は、『沖縄ノート』に記載された「命令」の意味について、それが、「日本軍−32軍−そして慶良間列島の二つの島の守備隊というタテの構造によって、沖縄の住民たちに押し付けられたものであり、直接には二つの島に入ってきた日本軍によって、多様なかたちでそれが口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された、その総体を指す」(乙90p13)とか、「『タテの構造』の、『最後の時』における集団自決の実行は、すでに装置された時限爆弾としての『命令』でありました」(乙90p28)と説明し、『沖縄ノート』の本件記述1に明確に記載された具体的な《部隊の行動をさまたげないため、また、部隊に食糧を提供するため、住民はいさぎよく自決せよ》という《命令》のことだと読み取ることは、「不十分ではなくて間違っていると思います」(大江調書p29)と主張した。
    ところが、被告大江が自ら認めるように、『沖縄ノート』には、かかる「タテの構造」に基づく軍隊の実効行為の総体としての「命令」のことも、「時限爆弾としての命令」のことも一言も出てこない(大江調書p28、p46)。そればかりか、その出版当時、そのようなことは他の場所でも論じられたこともないのである(大江調書p28)。 
    これでは一般の読者は(テレパシーを使うか、被告大江のレクチャーでも受けない限り)、『沖縄ノート』の「命令」の語を被告大江が解釈する意味に捉えることはできない。にもかかわらず、被告大江は、「読める」と強弁し、「今あなたが、自分が一般の読者の代表だと言われればそれはショックを受けますけれども、私は今までの経験ではそう思っておりません」と揶揄までしてみせた(大江調書p27)。
    思うに、
「名誉を毀損するとは、人の社会的評価を傷つけることに外ならない。それ故、所論新聞記事がたとえ精読すれば別個の意味に解されないことはないとしても、いやしくも一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈した意味内容に従う場合、その記事が事実に反し名誉を毀損するものと認められる以上、これをもつて名誉毀損の記事と目すべきことは当然である」(最高裁昭和31年7月20日判決) 
    本件各記述にある「命令」の意味について、いかに精読したとしても、被告大江が解釈してみせた「タテの構造による軍隊の実効的行動の総体」とか「時限爆弾としての命令」の意味に読む余地はないと解するが、百歩譲って、その余地があるとしても、その名誉毀損性(人格利益侵害性)は、あくまで「一般読者の普通の注意と読み方を基準にして解釈した意味内容」に従って判断されなければならないはずなのである。  
⑵ 曽野綾子の「誤読」について 
    被告大江は、曽野綾子が、『沖縄ノート』の記述について、平成12年に司法制度改革審議会において「風評を元に『罪の巨塊』だと神の視点に立って断罪のした人もいたのですから、それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました」であると批判し(甲B3 p4)、平成15年には、『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』(月刊誌正論2003年9月号所収)と題する論文において「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感じた」(甲B4p113下段〜)としたことに対し、曽野綾子の「読み間違え」(大江調書p16)であり「誤読」であるとしている(調書p44)。
そして原告赤松がその証言で『沖縄ノート』の記述について自分の兄や自分を傷つけるものと証言したことについは、原告赤松が、曽野綾子の「誤読」に影響されているとまで主張するに至った(調書p45)。
    被告大江が、なにをもって曽野綾子の読み取りが「誤読」であると断ずるのかは判然としないが、どうやら、被告大江が集団自決した住民の夥しい死体の塊を意味すると解説した「罪の巨塊」の「巨塊」について、「巨魁」と読み誤っているとの主張のようである(甲B95参照)。
    しかし、曽野綾子の前記批判をよく読めば分かるように、曽野綾子は、『沖縄ノート』の本件記述3にある「罪の巨塊」の表現に、神の視点(自分は絶対に正しいという視点)に立って、他人の罪を断罪することの恐ろしさを感じ取ったのであり、決してそれ自体が「大悪人」の意味にとれる「巨魁」と読み誤っているわけではない(尚、住民に自決を命じて大量虐殺するという巨きい罪を犯したものが大悪人であることは明かである)。  
また、「罪の巨塊」の「罪」についても、被告大江は、「それをひとつの家族に死をもたらすという『罪』とは次元の異なった(神でないものには云々できない)「罪」を指す、という読み取りをする人がいます」として、曽野綾子の前記批判における「罪」という言葉に異議を差し挟んでいる(乙90p18)。    
しかし、曽野綾子による「罪の巨塊」における「罪」の理解は、被告大江がいう普通の「罪」のことであることは明かである。曽野綾子は、調査もせずに、証拠もないにもかかわらず、自分は絶対正しいという神の如き信念をもって、「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する」ことを批判しているのである(司法制度改革会における曽野綾子の講演〈甲B3〉が陪審制の導入について、真実を発見することの困難さを指摘するものであったことは示唆深い)。
曽野綾子がカトリックの信仰をもっていることを持ち出しているのも(調
書p16)全くのお門違いであると言わざるを得ない。
尚、作家の井沢元彦が、被告大江の弁明が成り立ち得ないものであることを「〈罪の巨塊〉とは〈集団自決の死体〉のことという弁明は少し苦しいのではありませんか」という『サピオ』所収の論文で明確に指摘している(甲B96)。
結局、被告大江が主張した曽野綾子の「誤読」は、被告大江の「誤読」によるものだった。
  ⑶ 「誤読」に対する物書きの責任について
ところで、たとえ、著者の認識に照らすならば、それを「誤読」であると解釈する余地があるとしても、物書きは、その職業倫理として、正しく内容を読者につたえる責務があるのではなかろうか。一般読者のなかに自分の真意が伝わらず、著述を誤読するものがあれば、そうした誤読を招かないよう心がけ、訂正するなり、書き直すのが物書きの倫理ではないだろうか。
そうした素朴な質問に対し、被告大江は、「誤読によって人を傷つけるということを、作家は予想することができますか」「作家がものを書いている時、どういう人が読んで誤読するかということを予期すれば、私は責任をとることがきると思いますよ。それを予期しないときに、どうしてその責任をとることができるんですか。責任をとるということは、どのような行為ですか」(調書p45)と反論した。いうまでもなく、責任をとるということは、まず、当該著作を訂正するか書き直すことである。 
被告大江は、「タテの構造による命令」や「時限爆弾としての命令」が集団自決の原因だというのであれば、そして「罪の巨塊」を「集団自決の死体の塊」というのであれば、そのことが一言も書かれていない『沖縄ノート』の解釈として主張するのではなく、それを書き直すか、新たな書物を書くべきである。
原告梅澤や赤松隊長をはじめ、多くの人を傷つけ、懊悩させてきた『沖縄ノート』は、そうした傲慢な作家の独善の産物であった。
author:南木隆治, category:-, 02:16
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