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座間味の巻 宮里トメ以降
 

11 宮里トメ

当時30歳。座間味島での「集団自決」を体験している。(検

(1) 『沖縄県史第10巻』(乙9)

「座間味島の戦闘」(乙9p732〜)で「宮里とめ」として掲載されている。

昭和19年10月10日の空襲以前から始まる。

「十九年の十月十日の空襲以前は、本土から来た兵隊さん達を中心に陣地構築を行われていました。それを見ると、戦争か、と思う気持ちはありましたが、ふだん私達一般農民は戦争とも思えないような雰囲気の中でせっせと野良仕事にはげみ、のんびりと生活を送っていました。また私の家族も、そのようなのんびりムードの中で分宿割り当てされた兵隊さんたちと、家族の事や出身地の事を語らいながら、楽しい日々を過ごしていました。」(乙9p732)

※ 空襲前の兵隊と住民との関係を証言している。

 

「翌二十年の三月二十二日、一人の兵隊さんから、『あしたの情報は悪い気がするから、子供たちはなるべく早目に避難させない』と言われました。しかし突然の事なのですぐ避難というわけにはまいりません。やはり翌日まで待つことにして−略−(この後、壕に避難する)」(乙9p733)

   ※ 3月22日に、兵隊たちから「子供の避難」を言われている。《3月20日手榴弾交付=「命令」説》によれば、3月20日に「命令」が出ているにもかかわらず、それに反する行動を兵隊たちがしていることになる。やはり、3月20日手榴弾配布説》は破綻しているのである。

 

    「私の家族には小学校五年生の甥も加わっていましたが、彼は私達にはついてこないで、いつの間にか、とてもかわいがってもらっていた兵隊さんの後を追って、別の壕に行ってしまったのです。それが運命の別れ目になるのも知らずに……。」(乙9p733)

   ※ 甥、ひいては家族と兵隊との関係が分かる証言である。

 

    「番所にさしかかった際、一人の兵隊さんに会ったため、私達は、阿佐部落へ逃げる途中だ、という事を話すと、

    『そこへ米兵がたくさん上陸しているので下の方に逃げなさい』

   と言うのです。しようがないので、途中からまた下の方に方向をかえました。」

(2) 『座間味村史 下巻』【19897月発行】(乙50

「米軍が上陸した。みんな晴れ着を着てマカーの杜の忠魂碑の前に集まるように」(乙50p41)とは聞いているが、原告梅澤による自決命令とはされていない。全体的に米軍を好意的に描く証言となっているが、『潮だまりの魚たち』(甲B59)の証言がよりリアルである。 

伝令(恐らく宮平恵達である)とのやり取りが収録された貴重な証言である。その部分についても『潮だまりの魚たち』(甲B59)が詳しい。

(3) 『潮だまりの魚たち』(宮城恒彦著)【2004年6年23日】(甲B59)

     「第六話 アブの穴」(87p〜)に「宮里トメ」の証言が収録されている。 

「三月二五日の晩のことです。トメたちはヒジャーヌクシ山の親戚の壕に隠れていました。そこへ、村の一人の青年が伝令としてやってきました。

   『米軍が上陸した。みんな晴れ着を着てマカーの杜の忠魂碑の前に集まるように』息せき切って、とぎれとぎれに伝えます。

   『私たち着の身着のまま逃げてきたので、晴れ着なんか持っていない』

    伝令員にトメが問うと、きびすを返し、走りながら、答えました。

   『じゃあ、そのままの格好でいいです』

   アメリカー(米兵)が上陸したからには、忠魂碑に集まる目的をトメは、判っていました。覚悟を決めて、家族全員がマカーの杜へと山道を歩いて行きました。

    すると、さっき伝令に来た青年が道端にしゃがんで、掌いっぱいの大きなにぎり飯をがつがつ頬張っています。そして、トメたちの家族が通り過ぎるのを目で追いながら口を大きく開けて飲み込んでいます。

   『ヌーガ、アンシ、アワティティ、カムガ。アンシ、ヤーサヌバーイ(なぜ、そんなに急いで食べるのか。そんなに腹が空いているのか)』

   義母が怪訝な顔をして尋ねると、若者は、勇み立って答えました。

   『とにかく、腹一杯飯を詰め、元気を出し、敵の首を一つでも多く取ってから、僕らは死ぬんですよ、おばあさん』

    手には食べかけたにぎり飯が、まだ残っていました。トメは『武器らしいものはまったく持っていないのに、どのように戦うのだろうか』と、不思議そうに思いながら忠魂碑へ向かう下り坂にさしかかりました」(甲B59p92,93)

※ 「米軍が上陸した。みんな晴れ着を着てマカーの杜の忠魂碑の前に集まるように」とは聞いているが、原告梅澤による自決命令とはされていない。

 

『潮だまりの魚たち』(甲B59)には、『座間味村史 下巻』(乙50)にはない、印象的な「ネコイラズ」の話が掲載されている。

「トメたち家族は万一に備えてネコイラズ(農薬)を持っていました。

   『うちの家族だけでこれを食べて死ぬことにしよう』

    義父にそう言われ、意を決して稲崎山のシイの林を目指して歩きました。」(甲B59p95)

※ 「意を決し」たのは、義父の言葉である。この後、疲れ果てて、トメたちは「死ぬ気力も消え失せて」しまう。その後、トメたちは、上陸した米軍を目撃する。ここでの描写も『座間味村史 下巻』(乙50)にはない。

「『おーい、たくさんの人が田んぼの畦道を歩いているよ。どうしたんだろう』

   田の畦道をいくつかのグループに分けられて、銃を構えたアメリカの兵隊たちに追われるように村人たちが歩いてます。目を内海に転じると、数百はあろうかと思われる大小、様々な形をした軍艦や船舶が動き回っていて、水上飛行機が離着水しているのが見えました。あまりの威圧感に皆肝をつぶしました。『きっとたくさんのアメリカーが上陸したにちがいない。これでは皆殺しになる』と、トメは思い、これからの避難の仕方を真剣に考えました。」(甲B59p95)

「(米軍から逃げてきた二人の村の男から、村の状況を聞く)『もう、どうにもならない。見てのとおり、島は数えられない程の軍艦に包囲されている。すでにアメリカーたちは上陸した。村人の中には『自決』した人たちも多いらしい!大変なことになってしまった

村の三役の家族まで自決したと聞いた時には、いよいよ、死は免れないだろうと思いました。」(甲B59p60)

※ 『座間味村史 下巻』(乙50)にはない証言である。米軍に対する恐怖がまざまざと証言されている。更に盛秀らの自決を聞き「死は免れないだろう」と思っている。

※ この後、トメたちは、初めてアメリカ兵に遭遇し、「脱兎のごとく」逃げ出す。くたくたに疲れたときの証言が次である。これも『座間味村史 下巻』(乙50)にはない。

 

「特に、年取った両親は辛そうでした。『私たちは、年だから、いつ死んでもいい。ここに残るから、子どもたちを連れて逃げなさい。トメ、ネコイラズをこちらに渡しなさい。』」(甲B59p97)

「義父はそう言って手を出しました。トメはそれには応じず、『逃げられるところまでは逃げましょう』と、励まして、移動を続けました」(甲B59p98)。

※ この後、日本兵と遭遇する。この部分も、『座間味村史 下巻』(乙50)にはない。

 

   「番所山に来た時、小さな林の中に日本兵たちが露営していました。その一人が尋ねてきました。

   『どこへ行くつもりですか』

   『阿佐へ避難するのです』

   『すでに敵兵はすぐ近くまで攻めて来ていて、危険だから、島の裏海岸を通った方が安全です親切に、指示をしてくれました。」(甲B59p98)

※ 露営している日本兵たちに会い、日本兵から親切に、「指示」を受ける。忠魂碑集合を聞いた後、自決後の出来事であるにもかかわらず、生き残った住民に対して、日本兵が、安全な場所への避難の示唆をしており、自決命令とは相容れない行動である。この後、トメたちの隣家の次男「真次郎」に遭遇する。「真次郎」は、座間味島での米軍の行為を具体的に述べる。この部分も、『座間味村史 下巻』(乙50)から一切削除されている。

 

「運悪く米兵に捕らえられ、連行されていく途中、米兵たちが真次郎の家の壕の近くで休憩しました。その壕に隠れているはずの家族に会おうと、逃げるすきをねらっていたら、米兵たちは、彼の目の前で壕に手榴弾を投げ込み、さらに、火焔放射器で焼き払ったのです。」(甲B59p99)。

   「『家族は焼き殺された』と思った真次郎は『撃たれてもいいと覚悟して、米兵たちの目を盗んで逃走してきた』と話しました。

   『家族はみんな死んでしまった。自分一人生き残ったって意味がない。いつ死んでもいい』

    着けている母親の着物を握りしめながら、しょんぼりとうつむいています。

   『馬鹿なことを言うんじゃない。一日でも、一時間でも生きながらえた方がいい、とにかく、一緒に逃げよう』」(甲B59p99)

※ 『座間味村史 下巻』(乙50)では、「真次郎」は、「家族に会いたくて、用足しと偽って逃げてきた」(乙50p44)となっているが、臨場感等から、甲B59の上記証言にはかなわない。『座間味村史 下巻』(乙50)は、米軍の行為についての描写は極めて謙抑的である。

 

    この後、途中で、本部に米を届ける日本兵達に遭遇し、少し分けてくれないかと頼むと、主任の山元上等兵に、「分かりました。しかし、私たちも必死の覚悟でいくのですから、生きて戻れるなら、あげましょう」と言われている(甲B59p104、105)。更に、芋を掘る鍬を勝手に使った日本兵とのやり取りの中で、分宿していた中原上等兵と再会している。

「語調が自分でも分かるくらい和らいでいました。家にいた時の中原上等兵の柔和な顔が闇の中から浮かび、そして、日頃の誠実な言葉遣いを思い出すと、後悔しましたが、頭にとっさに浮かんだこれだけの言葉をつないで言うのが精一杯でした。

    自分たちの取った行動が申し訳ないと思ったのか、掘った芋を全部トメのカズマに移しながら、中原はトメに避難場所を尋ね、そそくさと闇の中に消えていきました。トメも後味の悪い感じがして、別れの言葉をかける余裕もありませんでした。翌日朝早く、中原上等兵がわずかな肉と味噌とをトゥールーガマに届けてくれました。」(甲B59p108)。

※ 忠魂碑集合を聞いた後、自決後の出来事であるにもかかわらず、生き残った住民に対して、日本兵が、食料の心配をしている。「自決命令」とは相容れない日本兵らの行動である。『座間味村史 下巻』(乙50)における日本兵に対する印象、アメリカ軍に対する印象は、甲B59とはかなり異なるものを受ける。ここでも、中原上等兵の前半部分(「柔和な顔」「日頃の誠実な言葉遣い」等)は『座間味村史 下巻』(乙50)にはない。住民の当時のアメリカ軍に対する恐怖、日本軍に対する当時の住民感情を抜きにして、「集団自決」は語れない。

(3) 小括

     宮里トメは、特に『潮だまりの魚たち』(甲B59)において、当時の実情を素直に語っている。いずれにしても《梅澤命令説》に根拠はなく、《梅澤命令説》とは相反する証言がされている。

 

12 宮村盛栄

元座間味村村長、当時既にその職を退いてはいたが、村の有力者であることには変わりがない。元座間味村助役盛秀(長男)、峯子、春子、とき子、旧厚生省において遺族補償について折衝した宮村幸延、直の父である。(供

(1) 『自叙伝』【昭和31年10月起稿】(乙28)(なお、以下の發蓮乙28自体に記載された發任△襦)

     宮村盛栄は、敗戦直後に詳細な自叙伝を残しており、自決に至る切っ掛け、経緯、その心理状態が克明に記載されている。《梅澤隊長命令説》は何ら記載されておらず、米軍の攻撃により自らが自決の意思を固めていった経緯が記載されている。

「明くれば二十四日午前九時からブラマン機は益々猛威を振るい、日中は外に出る事は不可能だった。此の調子だと今明日中に家族全滅するのも 時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に、部落の近辺で玉砕するのがましでないかと、家族に相談したら皆賛成だった。」(乙28p69)

※ 「今明日中に家族全滅」も時間の問題と考えたことが、自決をしようと相談するきっかけとなっている。上記の相談は、「春子」も入っていることに注意すべきである。

 

    24日の夜には、村の人々が、「覚悟の活動」をしていた旨の記載がある。

    「同日の夜 自分は座間味の壕に帰り村の情況と、家族の安否を尋ねたら、皆達者で元気一杯で覚悟の活動をしていた。」(乙2869)

   ※ 盛栄と同じ「覚悟」の気持ちであった。

 

「その夜、農業組合の事務所に行ってみたら、店舗は何一つも残らず吹飛び、事務室と応接間だけが傾斜のまま残っていた。それを見届けてから壕に引き返してみたら、組合の壕で松田つるが覚悟の後始末に余念がなく、宮平つるも又友人と共に着換えて愈々死出の旅路の準備を急いでいた。そこから春子を伴ひ盛秀等と別れて例の原屋に帰った」(乙2869〜70)

    25日、空襲、砲撃により盛栄は、「ただ茫然とするばかりであった」(乙2870)。

「丁度午後九時頃 直が一人でやって来て、『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した、明日は愈々座間味村に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか』と持ちかけたので、皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。」(乙2870)

※ このときにも「春子」はいる。自決の覚悟が、「ましではないか」から「しようではないか」に変化している。

 

    25日の出来事が、続く。

「途中、機銃弾は頭をかすめて、ピュンゝ風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。」(乙2871)

※ 「何の恐怖も抱かず」とあるのは、既に自決の確固たる覚悟があったからであろう。 

 

まず、盛栄は、盛栄らの壕に着いているとする。そしてそこに盛秀が来て、「今晩〜命令があるから」と言う。更に「組合の壕」に盛栄は向かう。その描写が次である。 

「早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった』ので、早速組合の壕に行ったら、満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったか 政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」(乙2871) 

   「壕は満員のため盛秀と相談して自分の壕に引き返す時政子親子が壕の中に居る事が判ったが、今更何ともできず、そのまま残りの家族を連れ去ったが、玉砕の時は連絡をせよと話したが之が可愛い孫子との最後の別れの言葉となったのである。嗚呼、その時の盛秀の決意の表情は今尚忘れることは出来ないのである。」(乙2871、72)

「翌二十六日は愈々米軍上陸の日である。」(乙2872)

「一丁ばかり離れた組合の壕の様子を聞いたら、暴風の後の静けさで、誰一人声を立てる者なくあたりはひっそりとして閑静であった。」(乙2872)。

「その時分には既に五十七名の者が自決した後と思考せられた。ああ何たる因果か、玉砕の時は連絡すると言ったはずの長男盛秀が一言の合図もなく妻子と共に死出の旅に登ったのかと思ったが、米兵の俄かの進撃にはその余裕もなかったであろう、と推挙したのである。」(乙2873)

(2) 小括

    この盛栄の『自叙伝』には、大きく二つの重要な意味を有する。まず、一つは、春子を含めた盛栄一家、その他村民が、自決の意思を米兵空襲、上陸間際、上陸直前と、自ら段階的に固めて言った証言がリアルに再現され、「玉砕の命令」なるものも出ていない状態で、盛秀らは自決したということ、つまり、《梅澤命令説》が虚構であること、もう一つは、春子陳述書に信用性がないことを示す重要な証拠であることである。『母の遺したもの』(甲B5)にも、盛秀と盛栄との最後の会話が記載されているが、この部分は、盛栄の「自叙伝」にはない。盛栄において最も印象深いと思われる盛秀との水杯に関する描写を「自叙伝」に記載していない点で果たしてどちらが真実か判らないところでもあるが(しかも、盛栄は、「盛秀の表情」としており、盛秀との会話がなかったかのような記載をしている)、この部分は、『母の遺したもの』(甲B5)の著者「宮城晴美」が、春子に対し、これも含めて注意深く証言を聴取し、春子の証言を真実と判断して記載したはずの所である(春子の陳述書に信用性がないことを示すものなので、春子の欄で詳述する)。

 

13 宮村幸延

旧厚生省の遺族補償について折衝。盛栄の子、盛秀の弟

(1) 『証言』(宮村幸延)【昭和62年3月28日】(甲B8)

「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります

     右当時援護係  宮村幸延(宮村の印)」

   と書いて署名押印した書面を原告梅澤に交付した。

(2) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和62418日朝刊】(甲B11

    神戸新聞が、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しの下、宮村幸延が、原告梅澤に「証言」(甲B8)を書いて交付したことを掲載した。

    宮村幸延と厚生省の折衝でも14歳未満の自決者遺族については、適用は無理との判断がいったんは下されたが、当時の村長らと協議し、自決は「部隊長命による」との申請を厚生省に出し、この結果、昭和31年3月、14歳未満の自決者遺族についても、法律制定当時に遡って補償が支給されるようになった。

    宮村幸延は

「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を「拡大解釈」することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」

と胸の内を明かした。記事中には、「A」さんとあるが、中井記者自身が、「Aさんのコメントも、宮村幸延さんの私に対する発言をその主旨に忠実に要約したものであり、『拡大解釈』といった言葉も、宮村幸延さん自身が用いられた表現だったのです。」と陳述している(甲B34p5)。

(3) 「東京新聞記事」(東京新聞社)【昭和62年4月23日朝刊】(甲B12)

    上記「神戸新聞記事」(甲B11)と、同様のコメントを、掲載。

(4) 小括

    宮村幸延の「証言」は、「秘密の暴露」的な内容であり、《梅澤命令説》が真実でないことを示す決定的な証拠である。

 

14 石川重徳

当時の座間味郵便局長(供

(1) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和607月】(甲B9

「村役場の三役にはよく会っていたが、戦況が日増しに厳しく『敵が上陸したら、何とか安らかに死にたいね』とよく口にしていた。『一億玉砕』思想が浸透していたのだろうと思う。」

(2) 小括

   《梅澤命令説》を何ら語っていない。

 

15 関根清

原告梅澤少佐の元部下(機

(1) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和607月】(甲B9) 

   「前夜に部隊に村人たちが来られたことはよく覚えている。敵の艦隊が目の前にいるわけだから、部隊としても武器を提供するわけにも行かず、部隊長の梅沢少佐が忠魂碑まで出かけて集団自決命令を下す余裕などなかった

(2) 小括

   《梅澤命令説》を完全に否定する証言である。

 

16 宮平つる子

宮城初枝が原告梅澤少佐に助役らと共に向かう直前に会った住民である。(后

(1) 『母の遺したもの』(甲B5)

「つる子さんは覚悟を決めているらしく『初枝さん、私と一緒に死にましょうよ。どうせ助からないのよ』と言ったのです。私も同じことを考えていましたので、『一緒に死にましょうね』と語気を強めて応えました。

    その時です。助役の宮里盛秀さんに呼び止められました。」(甲B5p38)

(2) 小括

    既に覚悟を決めている住人である。その理由について「どうせ助からないのよ」と挙げている。これも《梅澤命令説》が否定される証言である。

 

17 宮城恒彦

座間味島、当時11歳。『潮だまりの魚たち』(甲B59)の著者である(后

(1) 『潮だまりの魚たち』(甲B59)

「しばらくして、『村民全員、忠魂碑の前に集合するように』と言う知らせが届きました。『忠魂碑の前で集団自決をする』と言うのです。その碑は村の裏にある鎮守の森に建てられていました。忠魂碑とは戦争で死んだ人を記念する碑のことです。戦死すると、このように祭られることを国民に示していました。・・・・・

      その碑の前を通る時は頭を下げるように教えられました。その場所で自決することは臣民の本望だと大人たちは考えていたのでしょう。

      『全員集合』の知らせで、辺りに隠れていた村人たちがでてきました。皆晴れ着姿で。しかし、これから行く先で起こるであろう場面を思い浮かべてか、声もありません。」(甲B59p52)

   

「『大変だ!アメリカーがそこまで来ている・・・アンダミー(青い目)だった!銃剣をつきつけられた!・・・つかまえられそうになった、こわかった!』息苦しそうに言葉をつないでいきます。」(甲B59p53)

     「『それに、産業組合の防空壕の人たちは・・・皆死んでいた!』

     言い終わると、その場に座り込んでしまいました。

      壕内がにわかに騒がしくなりました。どうしたらよいか、わからなかったのです。『この壕から逃げていっても、途中で米兵に殺されるだろうし、そのままいれば、間もなく米兵がやってきて、うち殺されるだろう』と、『殺される』ということだけが頭の中をかけめぐっていたのです。

      結局、皆で一緒に死のうということになりました」(甲B59p54)

        ここから、集団自決の描写(甲B59p54,55)

「『死ねなかった』ということで、人々はあせり始めました。校長先生ご夫妻は、かねてからかばんの中に用意していたカミソリで自決することを決めたようです。『皆の死を見届けてから、校長先生は最後に』と、皆でお願いしましたが聞き入られませんでした。

      『そういうわけにはいきません。めいめい自分で死ぬ方法を考えてください。・・・たとえ、米軍の捕虜になっても、日本軍のことは決してしゃべってはなりませんよ』

      校長先生は落ち着いた調子で、さとすようにそう話されました。すでに自決を覚悟していた口ぶりです。」

(2) 『母の遺したもの』(甲B5)

甲B5p129〜にも『しおだまりの魚』から引用して、同人の証言が紹介されている。

(3) 小括

      以上のとおり、当時11歳の証言者は、周りの大人の行動をつぶさにみており、「皆で一緒に死のう」と決意したのは、「おばさん」の米軍の目撃と行動が原因になっていることが分かる。また、証言者が見た「校長先生ご夫妻」は、「かねてから」自決、「すでに自決を覚悟」しており、《梅澤隊長命令》は聞いていないし、原告梅澤は、自決の意思に関与さえない。

 

18 中村春子(渡慶次ハル子)

当時25歳。3月23日の空襲で肉親(母、姉)を亡くし、自らも傷を負う。(検

(1) 『潮だまりの魚たち』(甲B59)(p63〜)(旧姓で、登場。同趣旨の証言が『座間味村史 下巻』(乙50)に収録)

「夜も遅くなってから、村の若者が伝令でやってきました。

    『アメリカが上陸するらしい。その前に『玉砕』するから、全員マカーの社の忠魂碑の前に集まりなさいとのことです。あと、お米の配給があるので、内川の壕まで採りに行くように』

    そして、若者はまたすぐ闇の中へ消えて行きました。これから死ぬという時に何故お米が必要なのでしょうか、今思えば、伝令は訳の分からないことを言っていたのですが、当時の村民たちは、それを深く考える心のゆとりもありませんでした。『自決』の恐怖よりも、話に聞いたアメリカー(アメリカ人)による虐殺の方を怖れて、皆三々五々に壕を後にして、艦砲の音が吠えている野中の道を歩いてマカーの社へ行きました。」(甲B59p78)

※ 原告梅澤の自決命令とされていない。しかも同時に自決命令とは相容れない「配給」の話まで出ている。証言者は、「『自決』の恐怖よりも、話に聞いたアメリカー(アメリカ人)による虐殺の方を怖れて」マカーの杜へ行ったとある(甲B59p78)。その後の怪我をした証言者との日本兵とのやり取りも証言されている。

 

「薬はない。雨に濡れているようだけど、危ないよ。軍の中にも、それがもとで、破傷風で死んだ者もいるから、気をつけなさい。こんな怪我をしているのに生きているなんて、あなたは神様みたいな人だね。」(甲B59p84)

と言われている。

※ 自決命令が出ているのならば、生き残っている住民に対し、命令を守らなかったことについて何らの言動があるはずであるが、むしろ反対に怪我に気遣った言動を日本兵自身がしている。これも自決命令とは相容れない証言である。

(2) 『座間味村史 下巻』(乙50)

    『潮だまりの魚たち』(甲B59)と同趣旨の証言が収録されている。

(3) 小括

     ここで、証言者は、『「自決」の恐怖よりも、話に聞いたアメリカー(アメリカ人)による虐殺の方を怖れて』とし、《梅澤隊長命令》を語っていない。

 

19 田中登

当時座間味島在住。後、座間味村長となる。『悲劇の座間味島』(乙6)序文に登場している。(后

(1) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年発行】(甲B21)

「軍の命令によるのか、村役場の示唆によるのか、同夜、静かな山に不気味な爆発音がこだまして、170人あまりの村民が『自決』によって、われとわが命を断っていた。村役場の三役も農業組合の壕で果てた。」

(2) 小括

    「軍の命令」「村役場の示唆」という推定に止まっており、《梅澤命令説》を裏付けるものではない。

 

20 宮里正太郎

    当時召集兵。20歳。当時は召集され島にはいない。

(1)            『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)p124〜

   色々述べており、推測しかないが、当時の心理状態を表す言葉がある。

  「結局、島は本土防衛の第一線にあるという住民の自覚と、先のさまざまな条件が加味しあい、更に隊長のこちらの要請に応えた判断をもって、自決に結びついたじゃないかと……」

(2)            小括

「島は本土防衛の第一線にあるという住民の自覚」というのを自決の原因として挙げている。このような意識を持った住民も存在していたのである。

 

21 当間正夫

    当時座間味島在住のカツオ船船長、当時34歳。「集団自決」の体験者である。『母の遺したもの』(甲B5)の「A家の隆三」のエピソード(甲B5p109〜)とエピソードとしては、よく似ているが別人ということで、整理しておく(『母の遺したもの』は住民の氏名の一部を仮名にしている。甲B5p10)。(検法峻烈な事実であるが、そうだからこそ、価値のある証言である。

   (1)  『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)p124〜

    「猫いらずを飲んだ。猫いらず飲んでも、すくには死ねない……うちの者たちは、苦しみ、悶えて、助けをもとめるのです。十三歳の子供をかしらに五人の子がいて……。みな顔じゅうをゆがめて叫ぶンです。私はたまらず、壕に落ちていた棒きれを拾い、子供たちの頭を……力いっぱい……なぐって……。

    そして子供をラクにさせたあと、残りの猫いらずをぜんぶ飲んだ。それでも死ねなかった。」(甲B21p124)

   「でも自分だけ元気になっても、五人の子供も、女房も、妹も死なしてしまった……。」(甲B21p125)

(2)            小括

証言者の心の中まではのぞくことはできない。しかし、「自決命令」で、上記心理状態に陥るとは通常は考えられないのではないか。

author:南木隆治, category:-, 20:02
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