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第2 座間味島の巻
第2 座間味島の巻
1 上洲幸子
米軍上陸の昭和20年3月26日当時、座間味島に在住していた。(后
(1) 『陳述書』(乙52)【平成19年5月10日付】
 「米軍が上陸して4、5日たった頃」
   「…筒井という日本軍の中尉がやってきて、私たち島民に集まるように言いました。私たちを含め10人ぐらいが筒井中尉のところに集まると、筒井中尉は、私たちに、『アメリカ軍が上陸しているが、もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい。』と指示しました。」(乙52p1)
※ 米軍が上陸して4、5日たった頃、即ち、昭和20年3月30日か同年4月1日の頃のことを陳述している。本件の対象となる《梅澤命令説》は、梅澤隊長による無慈悲直接命令という特定の中身ある内容の「命令」であるところ、上洲の陳述は本件と何ら関係がない陳述である。何よりも、この陳述書には、「神戸新聞記事」(甲B9)で明確に述べている「集団自決の命令はなかった」という部分が抜けている。
(2) 『神戸新聞記事』(神戸新聞社中井和久)【昭和60年7月30日朝刊】(甲B9) 
   「米軍上陸後は奥地へと転戦する日本軍とともに行動した。集団自決の命令はなかったが、上陸後、四、五日たって日本兵の一人から『米軍に見つかったら舌をかみきって死になさい』と言われた」
(3) 『朝日新聞記事』【平成19年5月14日】(乙53)
  「上洲幸子さん(84)は母や兄嫁らとともに、山中でほかの住民たちと行き会う。そこにいた軍人が住民を集めて言った。『こうなったからは仕方がない。敵に見つかったら、舌をかみ切ってでも死になさい。』」
(4) 小括
    何よりも、『神戸新聞記事』(甲B9)の証言を抜きに語れない。「集団自決の命令」はなかったと証言している。この記事には「日本軍の命令はなかった」として関係者の証言が掲載されているのである。

2 宮里峯子
宮里盛栄の二女、助役兼兵事主任盛秀の妹、春子の姉である。
(1) 『小説新潮1988年1月号「第一戦隊長の証言」』(甲B26)
   「盛栄さんの二女で盛秀さんの妹である峯子さんは、兄一家と別れたときの状況を次のように話す。」
「組合の壕の入口まで来たとき、中から、この壕は公職者が入るんで一般の人は出てくれ、という兄の声が聞こえたんです。中は手も足も入らないくらい人でぎっしりでした。
    兄たちは先に奥のほうに入っていて、私と妹のとき子とで何とかしてまん中まで入ったんですが、自分たちの家族は入れるのか、文句をいう人がいたもんだから、入り口に引き返したんですよ。そのとき春子はまだ入っていなかったと思います。
    そこへ兄が出て来て、米軍が上陸したらこちらから連絡するから、日本人と生まれたからには敵の手につかまって恥をさらすより、日本人らしく立派に玉砕しようね、と言ったんです。」(甲B26p294最下段)
(2) 小括
    宮里峯子は、盛栄の二女であり、助役盛秀の妹である。助役盛秀から、『玉砕しようね』と言われている。これが峯子が聞いた盛秀の最後の言葉であり、この後「盛栄夫妻、峯子、春子、とき子、美枝子の六人は、農業会の壕に入るのをあきらめて、そこから約五十メートル下に掘ってあった広さ四畳半ほどの自分たちの壕に身を隠した。それが生存につながるのである。」(甲B26p295最上段)。座間味に米軍が上陸する(上陸は26日)前の話である。盛栄の『自叙伝』とも整合する証言である。
 
3 宮村文子(旧姓 宮里)
宮村幸延の妻。米軍上陸の昭和20年3月当時は、19歳である(陳述書〈乙41〉によると20歳とあるが、大正14年12月10日生まれである。)。当時は、未だ幸延と婚姻しておらず(「昭和24年に結婚」と陳述書にある)、幸延家族とは一緒に行動していない。
(1) 『陳述書』【平成19年1月12日付】(乙41)
   「座間味島で村民が集団自決したのは、日本軍が島に駐留して以来、アメリカ軍に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されひどい目に遭わされるので、アメリカ軍が上陸したら捕虜になったりせず玉砕するように、軍から言われていたからだと思います。」
と述べており、《梅澤命令説》の根拠となり得ない。
    なお、例えば、中国軍による日本人虐殺事件「通洲事件」等は、朝日新聞等のマスコミでも大いに宣伝されており、米軍の残虐性についても同じである。「日本軍が島に駐留して以来」というのは、おかしいとは思うが、あくまで、 「宮村文子」自身の認識の問題であるから深くは立ち入らない。しかし、この証言は、陳述書以外の証言には出てこない。

    宮村文子の陳述書は、宮村幸延の「証言」(甲B8)を弾劾することに多くを費やす。
   「夫は酒が好きで、トレイに行くにも酒の入ったコップを持って行くほどでした。普段は無口なのに、酒に酔うと見境がなくなり、ケラケラ笑い、飛んだり跳ねたりします。3月27日の夜と28日の朝に酒を飲まされたときも、そのような状態でした。
座間味村の集団自決が梅澤隊長の命令ではなく、幸延の兄の盛秀が命令したもので、遺族援護法の適用をしてもらうために隊長命令があったことにしてなどということは、夫からも、盛秀と夫の父である盛栄からも聞いたことは一切ありません。また、夫は長男である盛秀が自決したので宮村家を継いでおり、集団自決を命令したのは兄の盛秀であるなどという文書を書くことは絶対にないはずです。
    私は夫が問題の文書を書くところは見ていませんが、仮にその文書を夫が書いたのだとすると、酒に酔ってわけがわからなくなったときに書かされたのではないかと思います。」(乙41p2)
   「なお、その騒ぎがある前に神戸新聞の記者などから夫あてに取材の電話があったことはありません。私はそのような電話を取り次いでいませんし、夫からもそのような話を聞いていません。」(乙41p2)
   とある。
※ 「遺族援護法の適用をしてもらうために隊長命令があったことにしてなどということは、夫からも、盛秀と夫の父である盛栄からも聞いたことは一切ありません」というのは、当たり前である。妻とて話すことができるはずもない秘密事項である。「集団自決を命令したのは兄の盛秀であると書くはずがない」という理由に、夫幸延が盛秀自決の為宮村家を継いだことを挙げているが、何ら理由にならない。むしろ、そのような立場の幸延が告白したこと自体、幸延の告白に信用性が認められる証拠である。「酒に酔ってわけがわからなくなったときに書かされた」とあるが、幸延の酒の酔った状態について「見境がなくなり、ケラケラ笑い、飛んだり跳ねたり」と述べているが、仮にそうだとしても、「わけがわからなくなる」とまでは述べていない。
(2) 『潮だまりの魚たち』(宮城恒彦著)【2004年6年】(甲B59)
「第十話 寒さの中を海へ」(甲B59p175〜)に「宮村文子」の証言が収録されている。
「二十四日からの本格的な空襲と艦砲射撃の嵐が吹いてきた頃、『軍は村の東側で戦うから、民間人は西に避難するように」と、軍の指示が出ました。軍の情報が当時唯一の頼りだったので、文子の家族は指示に従い、村の西側に位置する内川の防空壕に避難しました。」(甲B59p178)「その後、『どうせ死ぬなら一緒に』と、通信隊員から誘いがありました。『日頃親しくつき合っている兵隊たちが身近にいれば、落ち着いた行動がとれるのではないか」と思い、文子の家族は村の東側の高月山の中腹にあった軍の壕の一つに移動しました。近くには軍本部の壕がありました。』(甲B59p178)。
※ 軍と住民との日頃の関係が記載されている。

     自決の際の大人の精神状態を描写した場面も詳細に記載されている(甲B59p185、186、187)。
「G家、Y家のおじさんたちは米軍上陸の日に、この壕で妻子を絞め殺し、自分たちは死にきれず、数日間、家族の亡骸とともに地獄をさまよっていたのです。」(甲B59p185)。「それからしばらく、おじさんはその場に展開されている無残な光景のいきさつを他人事のように説明してくれました。」(甲Bp186)。米軍の軍艦船舶が、阿護の浦に侵入してくるのを知った「Y家のおじさん」は、首に縄をまきつけて「G家のおじさん」に引くように懇願した。それを実行しようとする「G家のおじさん」は、「僕は気が狂っている。どうしていいか、わからない」とつぶやいた(甲B59p187)。更に、「少し間をおいて、G家のおじさんは何を考えたのか。ポケットから取り出したひとかけらの黒砂糖を文子に渡して言いました。『これを食べなさい。お母さんに会ってから死ぬんだよ。』そして、『しかし』と続けました。『君ひとり逃がすわけにはいかない。一緒に死ぬか?』言っていることが矛盾しています。自分でも何を言っているのか分からない様子でした。『私は死にたくない!死にたくない!』文子は強く拒否しながらG家のおじさんとの距離をとりました。」(甲B59p187)。この後、「間もなくして息を引き取りました。Y家のおじさんでした。さては、と文子がG家のおじさんに目をやると、彼は綱の先を握ったまま呆然と座っておりました。」(甲B59p187)。
※ 集団自決に至る米軍に追いつめられた故の住民らの心理状態が詳細に描写されている。そこからは集団自決が、原告梅澤の「命令」とは無関係に進行していたことがうかがえる。
(3) 『座間味村史 下巻』【1989年7月発行】(乙50)p56〜59
    座間味に米軍が上陸する昭和20年3月26日のことから証言が始まる。
「私の家族は、母に姉、弟、いとこ二人の六人で自分たちの壕に避難していましたが、アメリカーが上陸しているというので危険を感じ、兵隊さんの近くにいた方が安心だからと、タカマタの方へ移動していきました。そこには通信隊の壕があったからです。私たちは、通信隊の壕のやや下方にある壕にたどり着きました。ところがそこでは兵隊さんたちが、『敵は上がってきたし、これで最期だ」といって、通信機をかたっぱしから叩き壊しているのです。そして上の方の壕へ移動するということで、おにぎりをにぎりだしたため、私たちも、ありったけの米を炊き、おにぎりを作りました。
    そしてその後、兵隊の長島さんたちと一緒に、私たちはマカーの忠魂碑の方に歩き出しました。」(乙50p56)
「その時なんです、アメリカーたちを見たのは。最近、写真で紹介されていますが、上陸したアメリカーたちが、忠魂碑の前を一列になって歩いていく場面がありますね、鉄砲をかついで。ちょうどその時なんですよ。私はすぐ近くの方にかくれて見ていたんです。」(乙50p56)
    この後文子らは、米軍にみつかり、銃撃を受け、家族とはぐれ、一人となる。
3月26日から3月28日か29日ころまで、ずっと一人でいた。
はぐれた後、暗闇の中を一人で泳ぎ家族と落ち合う予定であった壕とは別の「整備中隊の壕」に入る。
この後、二家族の凄絶なる「自決」の現場をみる(乙50p58,59)。
※ どこにも、《梅澤命令説》は、現れない。忠魂碑集合についても、兵隊に付いていったとあるだけである。
(4) 『母の遺したもの』(甲B5)
    宮村文子は、壮絶なる「集団自決」の実態を目撃している。『母の遺したもの』(甲B5)p103〜にN家の三郎一家、M家の栄太郎一家のことが記載されている。『母の遺したもの』(甲B5)は、「重信のように、妻子を連れて壕に避難した男性のほとんどが、米軍の上陸騒ぎのなかで妻子に手をかけていた」「『玉砕』は、住民にとって『親族を殺して自分も死ぬ』という意味に変わっていた」と記載している。
   「毛布をかけた数人の遺体を前に、一人の男性が大声で泣いている。『どうして自分はこんなことをしてしまったのか。わたしは気が狂っているのか』と、声も途切れ途切れに、わめきつづけていた。N家の三郎だった」(甲B5p105)
   「栄太郎の家族の遺体が並べられていた。『アメリカーに捕まるよりは』と、−中略−(家族らの)の首をロープで吊って殺したと栄太郎は文子に言った。」(甲B5p105)。「さらに『あんたも死ぬね』と言いながら、文子の首にロープを巻きつけようとしたが、文子は家族に会うまで死ぬわけにはいかないと、首を横にふった。『じゃあ、これを食べて親に会ってから死になさいね』と、栄太郎は黒糖を文子に手渡した」(甲B5p105)
※ どこにも《梅澤命令説》は記載されていない。文子の証言に真に価値があるのは、このような真実の『集団自決の実態』である。
(5) 小括
     宮村文子の陳述書は、《梅澤命令説》に関しては全てが推測で、そもそも《梅澤命令説》の証人適格を欠く証言である。幸延と婚姻したのは昭和24年で、盛栄、盛秀家族が自決の意思を固めて行った昭和20年3月24日、同25日には行動を共にしておらず、直後の同日に集団自決で亡くなっている盛秀からは話を聞いたことがないと当たり前のことも書いてあり、内容的にも乏しい。むしろ、文子の他の証言は、《梅澤命令説》を否定する証言となっている。

4 宮平(宮村、宮里)春子
宮里盛栄の三女、宮里盛秀は兄(長男)、宮里峯子は姉、幸延は弟にあたる。当時18歳(陳述書〈乙51〉には19歳とあるが、大正15年9月14日生なら、昭和20年3月時点では、18歳となると思われる。)。(后
(1) 『母の遺したもの』(甲B5)
    宮城晴美は《梅澤命令説》の証人とされていた母・初枝から渡されたノートや、宮里盛永が書いた『自叙伝』、宮里春子らの証言等から、座間味島の集団自決は住民が自主的に固めていった「玉砕」の覚悟に基づき、助役の宮里盛秀が敵の「魔の手」から住民を守るための最後の手段として選択した命令によるものであるとし、梅澤隊長が、爆薬の提供と「玉砕」の申し出を拒んだことを事実として認めている。
「宮城晴美」は、事実を記載する際に、初枝のノート、宮里盛栄の「自叙伝」、春子の証言に接し、矛盾しているところは、自ら真実と信じるところを記載している。  
特に、春子しか判らないことや『自叙伝』にも記載されず、また『自叙伝』と異なるところを、かなりの部分、春子証言で補い埋めているのである。春子の「新たな証言」の位置付けを判りやすくするため、該当部分を、多少大目に引用しておく。
「『母はこの『悲劇の座間味島』と、ノートを私の目の前に開き、どこがどう違うのか説明をはじめました。事実と違う、あるいは書けなかったことを、今回は書いたという部分が八カ所ありました。村の指導者の行為や、自らが米軍の「捕虜」となったときの取り調べの内容など、本には載っていないことが具体的に付け加えられていました。
とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高司令官、梅澤部隊長からもたらされたという、『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。『座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令によるもの』という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。
事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して『あなたが命令したのではありません』と“告白”しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
改めて事実を記した手記を出版することで、母は、“証言”をくつがえそうとしました。」(甲B5p8,9)
   「(『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬をください』との申入れを梅澤隊長に断られた後)その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向って、『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように…』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが、『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして、盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた(第一部『母の手記』参照)。盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」(甲B5p215)
   「助役の宮里盛秀は行政を担当しながら、兵事主任、防衛隊長を兼務して最も軍に近い立場にあり、戦時下では村長を上回る権限を有していた。兵事主任は、村出身の在郷軍人のなかから村長が選任し、徴兵検査のための壮丁や現役入隊者の引率、兵籍簿の整理、召集令状の伝達など、那覇にある連隊区司令部の下部機関としての役目があった。またその他にも、軍からの命令で勤労奉仕などの人員を確保したり、食糧の供出、住民の非難、集結と、すべて兵事主任の盛秀をとおして住民に伝えられ、実行された。また防衛隊長は隊員を率いて積極的に軍に協力しなければならず、盛秀は村のなかでも最も多忙で責任の重い地位にいたのだった。したがって、上陸の前触れである艦砲射撃を受けながら、住民のとるべき手段をいち早く決定する役割が盛秀にはあった。米の配給はその一つであった。」(p212)
   「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と、恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令だと思った。というのも、これまで、軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を努めていたからである。−中略−在郷軍人会座間味分会の中枢にいた盛秀は、その(注『忠魂碑』)建立に熱心に関わってきた一人であった。とくに『島の聖地に戦死者の墓をつくることは許さん』と地元の神人たちから忠魂碑建立を猛反対されながら、その説得にあたったのが盛秀だった。そして彼は村の助役として、三年余りにわたって『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた中心人物であった。
    追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。それは各濠でそれぞれの家族単位でではなく、全住民が集団で、忠魂碑の前で決行することに意味があったようだ」(甲B5p215〜216)
  「盛秀の家族は大所帯のため、二手に別れて避難していた。盛秀の妻子と弟の直は農業組合の壕の近くに掘ってあった家族の壕に入り、両親や妹たちは隣の阿佐地区につくった畑の中の小屋に避難していた。艦砲射撃まっただなかの夜遅く、直が息も切れ切れに阿佐地区の両親のもとにやってきた。」(乙5p216)
※ ここから、事実関係を示す重要な資料として、『自叙伝』(乙28)と春子証言が軸となっていく。春子と盛栄は、「畑の中の小屋」(『自叙伝』では「例の原屋』と表現〈乙28p70〉」にいる。

  「(直は)『明日は敵が上陸するので家族全員で玉砕するんだ。一緒に座間味の壕に移ろう』と言う。盛秀に言われて来たようだった。全員が砲弾のなか、燃え上がる火を避けるように家族の壕に移動して行った。壕では盛秀の妻子が待っていた。しばらくしてもどってきた盛秀は深刻な表情で、『今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい』(盛永著『自叙伝』(乙28))と家族に向って言った。」(乙5p216,217)
※ 『自叙伝』との違いは、直の言葉(乙28p70では、『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した、明日は愈々座間味村に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか』とある。)と、盛秀が壕で待っていた(乙28p71では「早速来た」とある)とする点である。ここは、宮城晴美が春子から聴取したことを「真実」と認め、『母の遺したもの』(甲B5)に収録したものと言わざるを得ない。

「盛秀の妹の春子(19歳)は、残していたご飯をおにぎりにして、家族の一人ひとりに配った。あわただしい食事を終えると、子供たちから先に晴れ着を着せ、全員身じたくを整えた。出発の前、7歳、6歳、3歳の3人の子どもの前にひざまずいた盛秀は、三人をひとまとめに抱き抱え、『これからお父さんと一緒に死のうね。みんな一緒だから恐くないよ』と頬ずりしながら、しばらく子供たちを強くだきしめた。
涙声はまもなく嗚咽にかわった。それから杯に水を入れて父親の盛栄の前に進み、『お父さん、この世では十分親孝行ができませんでしたが、あの世ではきっと孝行します』と水杯を交わした。
    親、きょうだいとも涙、涙で、あの世での再会を約束した。
    盛秀の妻はまだ一歳にもならない三女を背負っているため、三歳の次女を義妹の春子に預けた。
    『娘をお願いね。あの世に行ってから必ず会おうね』と涙をぬぐいながら固く春子の手を握った」(甲B5p216〜217)
※ この部分は、盛栄の『自叙伝』(乙28)には一切記載がない。宮城晴美は、この部分は、全面的に、春子の証言によっているのである。極めて感動的な細かい描写が多く証言採取に相当の時間と労力を要したと思わざるを得ない。

「一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。燃え上がる炎と飛んでくる砲弾におびえながら歩いていると、突然数メートル先に照明弾が落下し、あたりが昼のようにパーッと明るくなった。これ以上進むと危険である。しかたなく、来た道を引き返すことにした。ちょうどその時、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向ってくるところだった。ここで全員忠魂碑に行くことをやめ、農業組合の壕に向って歩きだした。村長、収入役とその家族が先ほどまで避難していた壕である。『玉砕』の場所が決まったようだった。
ところが農業協同組合の壕に行ってみると、忠魂碑に向ったはずの役場職員や家族はすでに引き返してきており、さらに別の住民まで入っていて新たに人が入れる状況ではなかった。」(甲B5p218)
※ 盛栄の『自叙伝』(乙28)では、「忠魂碑に向けて出発した」との記載はなく、また、盛栄は、「玉砕の時は連絡をせよと話したが之が可愛い孫子との最後の別れの言葉となった」(乙28p70,71)、「ああ何たる因果か、玉砕の時は連絡すると言ったはずの長男盛秀が一言の合図もなく妻子と共に死出の旅に登ったのかと思った」(乙28p72)と記載しており、「『玉砕』の場所が決まった」とは盛栄は思っていないと思われる記載があるが、ここでも、「宮城晴美」は、春子の証言に重きを置き、『母の遺したもの』(甲B5)に「真実」として記載しているのである。

「盛秀は両親と妹たちに、『玉砕が決まったら直に呼びにいかせるから、それまで自分の壕で待っていてほしい』と言い残し、自分自身も農業協同組合の壕に入ってしまった。春子は盛秀の次女を背負い、両親と姉、妹の七人ですぐ近くにある自分たちの壕に戻り、待機することにした。いつ呼ばれてもいいように、全員が寝ずに待ち続けた。しかし、どんなに待っても直は呼びに来ない。・・・どれだけ経ってからか、壕のまわりが騒々しくなってきた。『敵が上陸した』と住民が騒いでいる。このままでは危険なため、父親の盛永の指示に従って急きょ裏海岸へ移動することにした。これで春子たちは死ぬ機会を逸したのである。結局、住民を敵の『魔の手』から守るために、盛秀は自分や妻子の命をもかけて『玉砕』を命令し、決行した。67人全員が死亡したこの壕で、どんな『玉砕』の方法がとられたのか、だれも知らない。数日後、農業組合の壕の入口で、銃を抱えたまま倒れている盛秀の遺体が発見され」。(甲B5p218〜219)
※ 盛栄の『自叙伝』(乙28)には、この盛秀と盛栄の具体的な会話(乙28p71では、「相談して」とあるだけである。)や、盛秀と春子が自分たちの壕で待つ間の具体的な事実は記載されていない。ここでも、「宮城晴美」は、春子の証言によっているのである。 
(2) 『陳述書』【平成19年5月10日付】(乙51)
「昭和20年3月25日には、父盛栄と母、私たち4姉妹と姉(長女と次女)の家族は、盛秀とその妻子、それに盛栄の五男の直が入っていた座間味地区にある宮里家の壕に避難していました。」(乙51p1)
「昭和20年3月25日のことでしたが、盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて、父盛栄に向って、『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている』と言いました。そして、皆で玉砕しようねということになり、私が最後のおにぎりを作って、皆で食べ、晴れ着に着替え、身支度を整えました。
    盛秀は、自分の子どもたち(長男7歳、長女6歳、次女3歳)を抱き上げ、『こんなに大きく育ててきたのに、手にかけて玉砕するのか。生まれなければよかったね。許してね。』『これからお父さんと一緒に死のうね。皆一緒だから恐くないよ』と頬ずりし、抱きしめました。そして、父盛栄に向って、『お父さん、生きている間は十分に親孝行ができなかったので、あの世で会うことができたら親孝行します。ごめんなさい』と言い、盛栄と水杯を交わしました。このときのことを思い出すと本当に胸が苦しくなります。
    それから、宮里家の壕にいた30人くらい(私たち宮里家の家族とその親戚など)は、盛秀を先頭に、忠魂碑の前に向かいましたが、途中で照明弾が落ちたりしたため、忠魂碑前に行くことができず、産業組合の壕に行きました。その後のことは、『母の遺したもの』に書いてあるとおりです。」(乙51p1、2)
「座間味島の住民の集団自決は、私の兄の盛秀が命令したものではなく、軍が命令したものであることは間違いありません。盛秀は『軍の命令で玉砕するように言われている』と、はっきり言っていました。軍の命令がなければ大変可愛がっていた幼い子どもたちを死なせるようなことは決してなかったはずです」(乙51p2)
※ 本件訴訟後になってなされた春子の陳述書ではあるが、『母の遺したもの』(甲B5)にも記載されていない事実、盛栄の『自叙伝』(乙28)にも記載されていない事実が唐突に述べられている。盛栄の『自叙伝』において米軍の攻撃が激しくなるにつれて、徐々に自決の意思を固めていく描写とは完全に矛盾し、特に、盛秀が、盛秀の子供らに「生まれなけばよかった」といったとする言葉は、当時村の指導者であり、被告らがいう「軍国主義」を最も体現している盛秀の言葉として到底考えられないものである。何よりも、『母の遺したもの』(甲B5)において、宮城晴美が春子から慎重に聴取したはずの事実とは異なる事実が主張されている。春子の陳述書では、「軍の命令」のみで盛栄、盛秀が自決したことになるが、家族思いの盛栄らの言葉と行動としては考えられない。
(3) 『朝日新聞記事』【平成19年5月14日付記事】(乙53)
    前記陳述書作成の直後に掲載された朝日新聞である。
「宮平春子(80)は爆撃のさなか、逃げ込んだ壕の中で兵隊から言われた。『捕まらないように潔く死んでください』との内容だったという」
※ 陳述書の記載とは異なることが記事となっている。
(4) 『沖縄タイムス記事』【平成19年7月6日付記事】(乙71の1、2)
春子の陳述書に沿った証言内容が載った記事である。
乙71の2には、どこにも記載がない盛秀の住民に対する言葉として、
「『私たちは自分たちの責任しか取れない、あなたたちの責任までは取れません。もう自由にしてください』」
との記載がある。
※ 上記記事にある盛秀の言葉は、村の指導者として行動し最後までその責任を全うしようとしていた盛秀の言葉としては考えられないものである。
(5) 小括
    宮城春子の証言は、『母の遺したもの』(甲B5)に、「宮城晴美」が、盛栄の『自叙伝』(乙28)との矛盾点をも理解しながら、春子の証言を『自叙伝』よりも重視し、詳細に掲載している。春子しか体現できない証言も記載されている。

5 中村尚宏
当時沖縄県立水産学校2年生である。座間味島での「集団自決」の体験者である。(后法自決失敗後、原告梅澤と会っている。
(1) 『潮だまりの魚たち』(宮城恒彦著)【2004年6年23日】(甲B59)
    「第七話 四十九個の小石」(甲B59p117〜)に証言が収録されている。
    集団自決失敗後、「これから先、軍に協力し、行動を共にしたい」と申し出、軍と共に行動を共にしている(甲B59p127)。その後敗残兵たちが、故郷の話や家族のことを語り合うのをみて、肉親が恋しくなり、別れてきた姉のことが気になり、原告梅澤と話したと証言している。
「『隊から離れて家族の所へ戻りたい』と部隊長の梅澤少佐に申し入れました。初めは聞き入れてくれませんでしたが、かすり傷とはいえ、腫れ上がった敏勝と清信の怪我の治療のことを話したら許可が出ました。」(甲B59p137)。
(2) 小括
     集団自決命令を出したはずの原告梅澤が、軍と行動を共にしたいと自ら言った住民に対して、「かすり傷」を理由に軍から行動を離れることを認めている。もし、原告梅澤が自決命令を下していたとすれば、ありえない行動である。

6 宮里育江(旧・宮平菊江)
当時、22歳。軍属として徴用され軍の経理勤務室に勤務していた。(機
(1) 『座間味村史 下巻』【1989年7月発行】(乙50)p59〜66
「三月二五日のこと、伝令が、敵の艦隊が安室島に上陸したことを伝えてきたのです。そしていよいよ、特幹兵が出撃するということになりました。それで、『私たちも武装しますから、皆さんの洋服を貸してください。それを着ますので、一緒に連れていって下さい」とせがんだのですが、『あなたがたは民間人だし、足手まといになるから連れて行くわけにはいかない』と断れました。そして『これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい』と、手榴弾を渡されました。』(乙50p61)
   「三月二六日朝、『敵艦隊座間味に上陸した』と伝令がきました。そして、『女性の軍属のみなさんは、住民が裏の山に行っていますから、食糧の持てるだけのものは持って移ってください。部隊長の命令です』と言われ、出ていくことにしました。けがをした兵隊たちには、それぞれ元気な兵隊たちがついていおりましたので、私たち五人だけで逃げようということになったのです。」(乙50p61)
※ 原告梅澤が、「自決命令」を出していたのならば考えられない行動が記載されている。
(2) 『潮だまりの魚たち』(宮城恒彦著)【2004年6年23日】(甲B59)
    「第九話 なぎさの小波」(甲B59p159〜)に宮里育江の証言が掲載されている。
    26日朝早く、伝令が「敵艦隊、座間味へ上陸しました。女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料をもってそこへ移って下さい。部隊長の命令です。」と聞いている(甲B59p163)。
※ 「部隊長」とは、原告梅澤を指す。沖縄住民として軍属的立場になっている者に対して、食料を持参した上での避難を命じている。
   
宮里育江は、その後逃げていく途中で、海上にある米軍船舶等をみて自決を決意する。
   「戦慄が走りました。誰が言い出したわけでもなく、育江たち五人は自決を決意しました」という(甲B59p164)。
   ※ 原告梅澤による自決命令とはされておらず、米軍船舶等を見ての戦慄からの自らの決断であることが明確に証言されている。

    更に、死期をさとった日本兵(少尉)にも遭遇した際の場面について以下のように証言している。
「しばらくして、死の近いことを悟ったのか、傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡し『自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい。』少尉の傷の状況を知っている二人は承知しました。しかし、日本刀を使うことは残酷だと判断したのか、伍長の持っていた拳銃を使いました。一発で息の絶えた少尉の遺体は魂が故郷に帰れるようにと、本土の方へ頭を向けて横たえられました。育江たちは泣きながら土をかぶせました。しばらくすると、今までこんこんと水が湧き出ていた近くの小さな泉が少尉の死と共にかれてしまいました。『どうしたのだろう』と不思議に思いました。水を無くしては生き延びられないと、育江たちは移動することにしました。その後、少尉を埋めた一帯は日米両軍の最後の激戦地となり、たくさんの日本兵の墓地となりました。『泉の水が消えたのは、少尉の魂が水を吸い取って、その場所の危険を育江たちに告げたのではなかろうか』と後日、彼女たちは語りあって冥福を祈ったといいます。」(甲B59p167〜168)
※ 軍が自決命令を出していたとすれば、少尉が部下に対し、一緒にいた住民の安全を気遣って「親元へ届けてやってほしい」と命令することはありえない。
(3) 『陳述書』【平成19年5月29日付】(乙62)
    評価の部分には証言として意味がない。3月24日に《梅澤命令説》についての推測も記載されているが、『座間味村史 下巻』(乙50)の3月24日の部分には、《梅澤命令説》に関する記載は一切ない。 
(4) 小括
    『座間味村史 下巻』(乙50)、『潮だまりの魚たち』(甲B59)での証言は、軍属として、軍の側にいた民間人からの貴重な証言である。この立場の証言は、座間味島では少ない。3月25日に、戦うことを望んだ育江らだったが、民間人であることを理由に、断られている。既に《梅澤命令》が出されているのであれば考えられない行動である。被告らは、この乙50p61に下線を引いているが、「万一のことがあった」ときのために手榴弾を渡すことをもって「自決命令」とは到底いえない。3月26日には、食糧をもって、逃げろとの「部隊長」(=原告梅澤)の「命令」が出ている。明らかに《梅澤命令説》とは矛盾する証言である。
    何よりも、宮里育江らについて、瀕死の少尉は部下に対して「親元へ届けてやってほしい」と「命令」(これは、明らかに、部下に対するものである)している。
 
7 宮城初枝
集団自決において梅澤隊長と話をした助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、国民学校長の玉城盛助、役場吏員の宮平恵達の5人の中での唯一の生き残りであり、《梅澤命令説》が虚構であるとの真実を知る者である。『母の遺したもの』(甲B5)の著者「宮城晴美」の母である。(犬領場であるが、兇領場らと共に梅澤隊長に面談している。)。座間味島における《梅澤命令説》の真実を語る最重要証人である。
(1) 『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』【昭和43年3月発行】(乙6)
    《梅澤命令説》が記載されている書物である。乙6には、事実と違う、あるいは書けなかった点が、《梅澤命令説》を含み8か所あるという(甲B5『母の遺したもの』(p8)。初枝は、この《梅澤命令説》が虚構であると後に告白する。ただ、意図的か知らないが後の書物には収録されず、《梅澤命令説》以外の点では、初枝の素直な証言(特に気持の部分)が現れているところ、ひいては、《梅澤命令説》の虚構性を示す事実、エピソードが証言されていることも事実である。特に、初枝たちと兵隊たちとの交流を意図的かは知らないが『座間味村史 下巻』(乙50)においては外されている(甲B5『母の遺したもの』で再収録されている。)。以下、事実を示すだけで十分である。
「『君たちも生きていたのか、よかった、よかった』
    『私たち自決しそこねて、どうしようかと思い悩んでいたんです』
    −中略−
『内藤中尉の部下が、娘さんたちに弾薬を運ばせたが、自決してしまったのかと、さがしていたが、貴方たちではないのかね』といわれ、
   『ええ、そうなんです。』と答えると、
   『ああ、本当に間に合ってよかった、すぐ行きなさい。心配しているよ。』」(乙6p48,49)
※ 『座間味村史 下巻』(乙50)にもあるエピソードであるが、若干表現が異なる。心配している主体は、明らかに兵隊たちである。この最後の言葉は『座間味村史 下巻』(乙50)で抜けているが、再度『母の遺したもの』(甲B5)で収録されている(甲B5p51)。

「(3月28日、兵隊たちの炊事をする初枝)敵がだんだん接近してくる様子です。『このままでは危険だから安全な所へ身をかくしましょう』一人が声にならない声でつぶやきました。でも、懸命に戦っている兵隊さんのことを思うと、早く食事を配ってあげたいと思うことが先で、やめるわけにもいかず、かまわず炊事を続けたのです」(乙6p52)(甲B5p54,55では、この気持の部分はないが、初枝の本心であろう。)
「(戦闘で佐藤伍長が重傷を負っている)あまりの重傷に手の施す術もなく、みかねて私は佐藤伍長の手をとり、『佐藤伍長、もうしばらくすれば楽になります。頑張って我慢して下さい』思わす慰めの言葉をかけてしまいました。佐藤伍長は、苦しさをたえながら目を向けて私を認めたらしく、『初枝さん、あんただったのか。この傷ではもう駄目だ。貴方方が、もし命あって、私の宿舎の方に会うことができたら、佐藤はここで戦死したが、皆様に受けたご恩に感謝しながら死んだと伝えてくれ』と、涙をはらはら流しながら語るのでした。そして、『初枝さん水…水…水を飲ましてくれ』と、しきりに水をほしがるのです。重傷者に水を飲ますことは禁じられておりますが、部隊長の顔をみますと、部隊長は目でうなずいています。」(乙6p54)。この後佐藤伍長は、川辺で自決して果てる。(甲B5p57,58に同内容が収録)
「(同じく重傷を負った田中上等兵が益々苦しみ、出血多量のためしきりに寒さを訴える)私たち5名が寄りそって、上からかぶさるようにしてあげると、皆の体温で温まったのか、少しずつ落ち着いてきました。
    私は急にお腹のすいたのを思いついて、『ご飯を炊いてくるから、貴方たち4人で体を温めておきなさいね』−中略−住民たちも、『傷ついた兵隊さんの看護は、ご苦労さんだね。われわれも何かしてやりたいが、せめてこの味噌でも兵隊さんにあげなさい』」と味噌を貰う(乙6p56)、この後田中上等兵は、みずからおにぎりが食べられず、初枝に口に入れて貰い『本当にお世話になって……』、『私はもう駄目だから構わずに早く安全な場所へ逃げてくれ。ここにいては危険だ。早く…早く…』と言い、『有難う』を繰り返しながら最後の息を引き取る(乙6p57)(甲B5p60,61に同内容が収録)
    この二人について、初枝は、次のように述べている。
「自分で果てた佐藤さん、またこの田中さんにしても、自らたえられないほどの重傷にあってさえ、周囲の人たちへの迷惑を考えて、手榴弾が爆発しても、その破片に及ばない安全な位置を求めて、這いずり回りながら苦闘の末に自決に及び、いままた田中さんが瀕死の重傷にもかかわらず感謝と思いやりの言葉を残して死んでなくなられた−何と見上げた人たちであったろう。私たちは、お二人の御霊安かれと、心からそのご冥福を祈りました。」(乙6p57)(甲B5p61にほぼ同内容が収録)
「(4月11日、負傷し破傷風にかかった瀕死の下谷兵長の場面)下谷兵長の状態を池谷少尉に報告しますと、駆けつけてきて下谷兵長をみて、さも気の毒そうにみていましたが、やがて、『下谷君、破傷風だが自決できるか。もう駄目だよ。』と語りかけたとき、苦しさに絶えられないはずなのに、にっこりと淋しいような、悲しいような面持ちの笑いを浮かべました。これが下谷兵長の最期の上官に対する答でした。
 下谷さんのあの顔は、今なお脳裡深くやきつき、生涯忘れることはできません。
 上官の言葉は、私たちにとっては誠に残酷なことだと思ったのですが、今までどのくらいの多数の兵隊さんたちが、破傷風のために自分から進んで射ってくれと戦友に頼んだり、自決したりしたことであったでしょう。上官としては仕方がなかったことなのでしょう。」(乙6p60)(甲B5p65,66にほぼ同内容が収録)
 この後、人知れず、下谷兵長は、姿を消す。
※ 下谷兵長は、乙6の著者「下谷修久」の弟である。なお、破傷風の上記状態は、死亡確実である。

   「『そう、あの頃の日本人はこれでよかったんだわ。亡くなられた方々も、恐らく日本に平和がよみがえってくる日のために犠牲となったんだわ。それがアメリカ軍の手によろうと、日本軍の手によろうと問題は永遠のために平和にあることで昇天されたのだわ』
    そう思って、みずからを慰めるしか考えようがありません。
    島の人だけではありません。戦死された幾多の兵隊さんたちも、同じ心で戦死されたのでした。」(乙6p67)
※ この結びにあたる証言は、初枝の本心であろう。意図的にかは知らないが『母の遺したもの』(甲B5)、『座間味村史 下巻』(乙50)では削除されている。このような思いがあったからこそ、初枝は、後に《梅澤命令説》の虚構を告白するのである。

この後に宮村盛栄も登場する。
「それから、部落町の宮村盛栄さんにお願いし青年団を組織して、あの山、この山、あの谷、この草むら……よくぞ逃げ回ることが出来たものと感無量になりながら、幾百人となく野ざらしになっている兵隊さんたちの屍を収容して歩きました。」(乙6p67)
※ この部分も、『座間味村史 下巻』(乙50)では削除されている(甲B5『母の遺したもの』p81で事実については再収録)。春子陳述書によれば、盛秀一家は「軍の命令」により自決したことになったことになるが、そうであれば、ここまで兵隊たちに献身的になったか極めて疑問である。つまり、春子陳述書の信用性はないのである。
なお、乙6の著書「下谷修久」は、「刊行の言葉にかえて」として、後書きを次のように記載している。
「もし、日本本土に上陸されていたら、われわれも、そして今の子供たちは存在し得なかったであろうことを思うにつけ、沖縄の人々の犠牲こそ平和へのカケ橋であったことを深く認識し、その現実こそ後世に残されるべきものである。
 外敵に一度もおかされた経験のない日本において誤解と混乱が生んだ悲劇というしかない。」(乙6p157)
「本書を編集するにあたって、資料をたくさん読んだ。そして軍を批判し、作戦をあれこれ批判するの多きに疑惑の念をもった。そして軍人の壮烈な戦死の様は、涙なくしては読めない内容となっている。
 日本の軍人は武士道精神によってたたき込まれてきた。戦場で死すのを誇りにさえ思ってきた。しかし一般住民にそれを強いた圧力と責任は誰がとらなければならなかったのであろうか。強いていえば日本国民全体であるはずである。
 今さら、軍の悪をあばいても仕方がない、といって、想像に近い内容で住民の悲劇を盛りあげるの愚もとりたくはない。日本人みずからを侮蔑したくないからである。」(乙6p158)
(2) 『手記「とっておきの体験手記」』【昭和57年頃】(甲B32)
    原告梅澤がその写しを渡された宮城初枝の手記「とっておきの体験手記」には、3月25日、宮里盛秀助役、宮城初枝ら5人が原告梅澤を本部壕に訪ね、自決の申出を拒否された様子が詳細に記載されている。
   「助役は隊長に『もはや最後の時が来ました。私たちも精根を尽す限り軍に協力致します。それで若者達は軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬を下さい』と、申しでました。私はこの時になって、ほんとに息もつまらんばかりにハッといたしました。」
    しばらく重苦しい沈黙が続いたが、
「やがて、沈黙は破れました。隊長は、沈痛な面持ちで承諾なされず『今晩は一応お帰りください。お帰り下さい。』となだめられ、私たちもそこを引きあげ」た(3月25日の記載・11丁裏面)。
    原告梅澤から自決命令を断られた後、隊長のいた本部壕を引き上げ、「元の所へ変える途中、助役は、宮平恵達さんに各壕を廻って皆んなに忠魂碑の前に集合するように・・・、又、私には役場の壕から重要書類を同じく忠魂碑の前に運ぶようにと命じられました。」と、助役が宮平恵達に村民を廻って忠魂碑前に集合するよう命じたことが記述されている。(3月25日の記載・11丁裏面)。
(3) 『手紙』【昭和57年7月15日】(甲B31の1)
    原告梅澤が地蔵尊開眼式のため来島した後に来た宮城初枝からの手紙には、下記のとおり、村の方針に逆らえず、原告梅澤が集団自決の軍命を出したと嘘の証言をしたことに自責の念を覚えてきたことがせつせつと綴られていた。
   「真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。あの悪夢のような二十五日のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。後、一人は生きていて欲しかったのでございます。誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。 私の終戦は終っておりません。今度、下谷さんが"悲劇の座間味"の本を再発行する事になりましたので、好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島の雰囲気の軍命と出し、誰もが知らない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。」
(4) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和60年7月30日朝刊】(甲B9)
「5人のなかでは、私がただ一人の生き残り。25日に、道すがら助役に会うと、『これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい』と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った。」
(5) 『紀要第11号「座間味島集団自決事件に関する隊長手記」』(大城将保)【1986年(昭和61年)3月31日発行】(甲B14)
     沖縄県史料編集所主任専門員の大城将保は、昭和60年7月30日付神戸新聞記事(甲B9)が《梅澤命令説》に疑念を示したことから、《梅澤命令説》の経緯を明らかにする必要を認め、当該説には二種類の原資料があると考証したうえ、「多くの住民証言から、役場の書記が『忠魂碑前に集合して玉砕するよう』伝達してまわった事実は確認されている。そこで問題になるのは、村当局と軍との間に集団自決についての事前の通達、ないし協議がなかったかどうか、ということである」と問題設定したうえで、当事者である原告梅澤がこれを否定していることを紹介し、
「一方の当事者である梅澤氏から異議申立てがある以上、われわれはこれを真摯に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである」として、原告梅澤の手記「戦斗記録」を「紀要」に掲載した。
    『沖縄県史』第8巻・沖縄戦通史では、山川泰邦著『秘録・沖縄県史』を参考にして命令内容が引用されており、おなじく『沖縄県史』第10巻・沖縄戦記録2では「座間味村」の項で大城が次のように「解説」を書いた。
「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」「ここでは、部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言から確認できるのである」。ところで、『沖縄県史』10巻の該記述は、下谷修久『沖縄戦秘録・悲劇の座間味島』に収録されている現地在住の宮城初枝の手記『血塗られた座間味島・沖縄戦死闘の体験手記』を参考に書いたものである。この原資料には座間味村当局が琉球政府および日本政府に提出した『座間味戦記』と題する文書がある。宮城の手記は、これを引用したものである。(甲B14p37)
    大城将保は、原告梅澤の『戦斗記録』の後に、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血塗られた座間味島』の手記が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅澤氏の手記のとおりであると言明して居る」と記して締めくくった。(甲B14p46)
  (6) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和61年6月6日朝刊】(甲B10)
    神戸新聞は、「『沖縄県史』訂正へ」の見出しのもと、沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業をはじめたことを報道した。
   大城将保のコメント
「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」「新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう」
   沖縄タイムス社の牧志役員室長のコメント
「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経緯があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅澤さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の筆者らと十分に協議、誠意を持って梅澤さんの理解がえられるようにしたい」
※ 大城のコメントは、「紀要」のコメントを簡略化したものである。
(7) 『第一戦隊長の証言』(本田靖春著)【昭和63年1月発行】(甲B26)
    著名なノンフィクション作家本田靖春は、座間味島に渡って関係者に直接取材し、そこでの集団自決につき、住民たちは、「自決命令のあるなしにかかわりなく」死ぬ覚悟であり、梅澤少佐以下の軍関係者は、自決命令どころか、むしろ自決を思い止めようとしていたことを認めた。
    宮城初枝の証言
「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さんたちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから−と励まされました」
※ 「下谷さん」とは、乙6に登場する破傷風で亡くなった乙6の著書の弟「下谷兵長」のことであろう。兵隊から食糧や壕を提供され、励まされてもいる。《梅澤命令》が出ているのであれば、考えられない行動を兵隊たちはしているのである。つまり、《梅澤命令説》は虚構に他ならない。

本田靖春は、集団自決について次のようにいう。
「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう。 
だからといって盛秀さんが自決命令を出したと短絡してはならない。この問題を考えるうえで最も重要なポイントは、前述した『自決命令のあるなしにかかわらず』という点である」(p305)

   宮城初枝が本田靖春に語った原告梅沢との再会の様子
   「喫茶点で挨拶を交わすなり、梅沢さんはぼろぼろ涙をこぼして、私は絶対に命令を出していない、と言い出したんです。そして、指を折りながら、宮里助役と、校長先生と、三人目はだれだったかわからないが、巡査みたいな人と、村の若い書記と、それに女子青年の5人が、米軍上陸の前日、私のところに挨拶に来たから、そのうちのだれかに訊いてもらえば、私のいっていることがうそじゃないとわかる、というんです。巡査みたいな人というのは収入役のことだったんですけど、その女子青年は私です、といいましたら、びっくりされましてね」(p306)(甲B5の「母の遺したもの」の記述内容と相違している)
※ このやり取りは、戦後35年もの相当期間経った後のことを忘れてはならない。原告梅澤も、初枝も、各々年月を暮らした後の再会のシーンである。
(8)『座間味村史 下巻』【1989年7月発行】(乙50)p10〜23
    そして、《梅澤命令説》は、県史から姿を消す。
 昭和19年10月10日の「兵隊さんたちのはじめての休養日」から証言が始まる。
「座間味部落の海岸では演芸会の準備を進めていました。しかも天気は快晴です。住民は山羊をつぶし、兵隊さんの労をねぎらおうと、懸命です。」(乙50p10)
   昭和20年3月23日の座間味への初めての空襲を経て、翌早朝、
「口にこそ出しませんが、この戦争はどうも勝ち目がないという思いをみんな抱いていました。こうなれば、どんなことがあっても、勝ち抜いてもらわなければならない、いや、必ず勝つように軍に協力しよう、私は女ながらも、こう心に誓わざるを得ませんでした。」(乙50p13,14)
   同年3月25日、米の配給の連絡
「(白い米を食べるということは)祖国の必勝を信じていた私たちにとって、迫りくる最期を覚悟しなければならないことを意味しました。それを思えば、どうして白いごはんが飲み込めるでしょう。」(乙50p14)
   この頃から、島は米艦艇に包囲
「部落民はその状況をみては錯乱状態に陥り−中略−村当局の壕へと集まっていくのでした。」(乙50p14)
   夜になって空襲はやんだが、艦砲射撃は間断なく続く。宮平つる子と話をしていたら、助役宮里盛秀が現れる。ここから梅澤隊長の下へ行くとの話になる。 
ほぼ『母の遺したもの』(甲B5)と同様の内容である。
※ いずれにしても、盛秀らの申入れを、原告梅澤は「断った」のである。
  住民たちが、初めての空襲、米の配給、米軍の包囲と戦況が緊迫するに連れて、自決を段階的に決意する状況がリアルに再現されている。

   『座間味村史 下巻』(乙50)の証言は、更に続く。
「仕方なくその場を引き上げたのですが、それから私と恵達さんは助役に呼ばれ、恵達さんには、『住民に忠魂碑前に集まるように連絡すること』、そして私には、『役場の壕(ウチガー山)から重要書類を取ってきて、忠魂碑前に持ってくるように』と命じました。」(乙50p15)
    初枝は、一人で運ぶことは無理と思い、妹を誘い、宮平澄江、小嶺つる子、その弟の茂の5人で書類を運ぶことになった、その後、1回目を運び終わり、2回目と引き返してきたとき、米軍の照明弾、艦砲射撃を目撃する(乙50p15)。 
この後、初枝たちは、軍の弾薬運びをすることを決意する。
「私たちもこうしてはおれません。ここまでくれば、一弾でも多く軍に協力して弾薬を運び、お役に立ってから死のうということになったのです。」(乙50p16)
再び艦砲射撃が始まり、初枝たちは、「大和馬の整備中隊の壕」に着く。
   「整備中隊の壕に着くと、兵隊さんたちは戦闘準備にとりかかっています。一人の兵隊さんから玄米ごはんや肉牛の缶詰をもらったのですが、空腹ながらも、のどを通りません。」(乙50p16)
午前9時頃、斥候が出され、1時間ほど経ったころ「敵、上陸を開始しました」という報告がある。
「それから兵隊さんたちは戦闘準備にとりかかりました。シンナークシの谷間づたいに出発したのです。その際、『お世話になりました。お世話になりました。』と、お互い堅い握手を交わすのですが、流れる涙を禁じ得ません。悲しい、悲しい別れでした。
    私たちも谷間を抜け出し、阿佐部落に通じる道に出ました。その時、特幹隊の伊藤少尉と阿部少尉に出会うのですが、『こちらは戦場になるから避難するように』といわれるのです」(乙50p16)
※ 兵隊たちは戦闘準備により死のうとしているが、それでも、初枝たちに避難を勧めている。被告らが、「自決命令」が出たと主張する後の話である。《梅澤命令説》とは完全に矛盾した話である。

「午後九時頃のことです。部隊全員が斬込み隊となって、夜襲を敢行することになったのです。その出発間際に、私たちは斬込み隊長の内藤中尉に呼ばれて『今夜半、斬込み隊は座間味の敵陣地を襲撃する。斬込み隊の生存者は稲崎山に集合することになっているので、お前たちは別働隊として、この弾薬を稲崎山の山頂まで運んでくれ。これで一緒に戦うんだ』と弾薬箱を渡されました。また、木崎軍曹からは、『途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ』と、手榴弾一個が渡されました。私たちは掛け声も勇ましく、さっそく目的地へと向かいました。」(乙50p17)
※ 木崎軍曹の手榴弾の交付の発言に被告らは線を引くが、この状況下で、「命令」とは取り得ない。そもそも《梅澤命令説》とは何ら関係がない。

    斬込み隊の兵隊を心配する初枝たちだが、兵隊は帰らない。
「『きっとみんな玉砕したのよ』
    言ってはならない言葉が、とうとう吐き出されました。
    『死のうよ、敵に捕らわれて辱めを受けるより、玉砕しよう。』
    すぐ決まりました。敵に捕まれば、女はさんざん弄ばれたうえに刺殺され、男は道に並べられてローラーの下敷にされてしまう、いつの頃からか、私たちは米軍の残虐さを、このような事情で教え込まれてきたのです。」(乙50p18)。
※ 被告らは、終わり第三文に線を引いているが、「日本軍の単なる宣伝」というのは承服しがたい。少なくとも軍民とも本気で信じていたのである。この部分は、表現は少々異なるが『母の遺したもの』(甲B5)に記載はあるも、『悲劇の座間味島』(乙6)には記載がない。いずれにしても、初枝ら自身が、「辱め」よりも「玉砕」を選んでいる。

この後、初枝たちは、玉砕の決行をするが、手榴弾が発火せず、失敗に終わる。
     後、機銃掃射を受けながらも、宮里良三ら部落の人たち4、5人に会う。
「良三さんは、『内藤中尉の部下が、娘さんたちに弾薬を運ばせたが、自決してしまったのではないかと探しているけど、あなた方じゃないか』と言うのです。『そうですよ』と応えると、『稲崎山で兵隊さんたちが待っているから、すぐ行きなさい』と言うもんですから、私たちは半信半疑ながら行ってみました。何と、てっきり全滅したと思っていた兵隊さんたちが、元気でいるのです。部隊は、私たちと入れ違いについたのでした。梅澤隊長と内藤中尉が喜んで、私たちの労をねぎらってくれました。」(乙50p20)。
※ 兵隊たちが初枝らのことを「心配」していたという証言が、乙6の記載にあるが削除されているも、「待っているから」というのは、同じ趣旨、つまり兵隊たちが(心配して)待っていると取ることができる。ここでも、原告梅澤が登場するが、「自決命令」を出した当人とは思えない「喜んで、私たちの労をねぎらって」いる。
(9) 『母の遺したもの』(宮城晴美著)【2000年12月第1刷発行】(甲B5)
    これは《梅澤命令説》の虚構性を示す最重要証拠である。日本軍に批判的な「宮城晴美」の吟味を経た上での収録であるから、その信用性は極めて高いと言わざるを得ない。《梅澤命令説》が掲載された『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)、《梅澤命令説》は掲載されなくなったものの米軍に対する恐怖、初枝と日本軍との交流が弱められた感もある『座間味村史 下巻』(乙50)も前にあるが、初枝の証言が、事実のとおり掲載されたのである。
「宮城初枝は、助役の宮里盛秀に呼び止められ、一緒について行くと、収入役の宮平正次郎、国民学校長の玉城盛助、役場吏員の宮平恵達の3人がいた。「『これから部隊長の所へ小銃弾を貰いにいくから一緒に行ってくれ』と頼まれました。本部壕にたどり着き、『部隊長に用事があって参りました』と告げると、やがて隊長が出て来られたのです。助役は隊長に、『もはや最後の時が来ました。私たちも精根つくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』と申し出ました。私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片膝を立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーと目を閉じたっきりでした。私の心が、千々に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと、私は最悪の事態を考え、動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙が破れました。隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引き上げて来ました。」(甲B5p38〜39)
なお、『母の遺したもの』(甲B5)には、米軍の恐怖、日本兵との人間臭い交流が、ほぼ乙6と同様のことが記載されている。そして、乙6にも、『座間味村史 下巻』(乙50)にも記載がなく、当時の初枝の気持ちが如実に表れている極めて印象的な場面の記載がある。初枝の米軍に対する取調のシーンである。

「米兵 両親の自殺行為はなぜ?」
 初枝 米軍上陸の恐怖の為です。」(甲B5p77)
   
宮城初枝の娘、宮城晴美は座間味村の「集団自決」の証言調査をしていたが、その態度にも、宮城初枝の胸に秘めた「告白」が大きく影響しているので、以下、その部分を摘示しておく。
「昭和32年4月に座間味村で実施された厚生省の調査において、役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問のひとつひとつに『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答えたという。座間味村役場では、厚生省の調査を受けたあと、村長を先頭に『集団自決』の犠牲者にも『援護法』を適用させるよう、琉球政府社会局をとおして、厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出した資料『座間味戦記』が私の手元にある。そしてこのなかに、『梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まだ戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった』というくだりが含まれている。」(甲B5p252〜253)
  「村役場から厚生省への陳情に使われた文書(座間味戦記)を引用して書いた文章が『家の光』に掲載され、5年後『血塗られた座間味島』と題された作品が『沖縄敗戦秘録−悲劇の座間味島』」という単行本に転載された。」
  
「私は学生時代『沖縄県史10巻』に収録する『県民の戦争体験』の聞き取りで、座間味村の『集団自決』を中心とする調査を手伝ったことがある。その際、『集団自決』で未遂に終わった人のほとんどが、『隊長からの玉砕(自決)命令があった』と証言していたことを覚えている。そのことを話題にしたとき、母は『ほんとに、直接隊長からの命令を聞いたのか、どんな状況であったのか、その人にもう一度確認してから書きなさい』と言い、私は、証言者それぞれに再確認した記憶がある。 その結果、『役場職員の伝令が来た』『忠魂碑前に集まれと言われたから』となり、『隊長命令』という明確な証言は聞けず、記録からも削除した。おそらく、母は私に事実関係に気づかせようとしたのかも知れない。 ところが『証言』としては隊長命令はなかったが、同じ『沖縄県史10巻』のなかで、座間味村の戦争の概要を紹介した文章には、母が書いた『隊長命令』がそのまま引用されたのである。」(甲B5p258〜259)
※ なお、座間味村の住民の証言が、「梅澤隊長からの命令」と受け取った理由についても『母の遺したもの』(甲B5)に記載されている。「住民が命令と思ったこと」という事実と《梅澤命令説》との違いを意識する意味においても記載しておく。
「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからである。」(甲B5p215頁)。
(10) 小括
   宮城初枝は、上記のとおり、明確に《梅澤命令説》を完全否定している。
また、木崎軍曹から受け取った「万一のための」手榴弾の交付も「自決命令」とはいえない。

8 宮里美恵子
当時座間味村農業組合保険部に勤務。当時30歳。助役の盛秀たちが自決した「農業組合の壕」にいたが、難を逃れる。伝令の「忠魂碑前に集まれ」を聞き、忠魂碑前に行ったが、誰もおらず、組合の壕に戻ったが既に自決が実行されていた。『母の遺したもの』(甲B5)p114〜に、「村の指導者たちの死」というタイトルの中に収録されている。(兇剖瓩き検法
(1) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p739〜746
「二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰えることなく、二十五日晩の『全員自決するから忠魂碑前に集まるよう』連絡を受けた頃などは、艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしている感じです。『このような激しい戦闘では生きる望みもないから』ということで、命令を受けると、みんなは一張らの服を取り出して身支度を整えました。」(乙9p741)
※ 注意すべきは、この時の状況は、激しい艦砲射撃により「生きる望みもない」状況である。この状況を自決の理由にしている。
(2) 『中公新書「沖縄の証言(上)」』【昭和46年初版発行】(甲B45)
座間味の集団自決について、当時座間味村農業組合保健部に勤めていた宮里美恵子は、忠魂碑前の集合と自決について、次のように証言しており、それが原告梅澤の命令によるものとはしていない。
「翌(3月)25日夜の10時ごろ、玉砕命令が下っているから…という言い伝えがありました。農業組合に勤めていた宮平という青年が言い伝えていました。…みんな玉砕するから、忠魂碑の前に集合してください、と宮平ケイタツという十九歳の青年がどなるようにいったんですよ。そして彼はあっちこっちの壕にも、同じことをふれまわって歩いていたそうです。だれからの命令ともいいませんでした。… その伝令を聞いたとき、私はすぐ死ぬ気になったんですよ。死ぬことがお国のためであれば、それは本望ですからね。… 私たちが忠魂碑の前に来たときに、さらに艦砲射撃が激しくなってきましたね。で、わたしたちはこわくなってきたんです。死ぬのはなんでもないと思いながらも、いま砲弾にあたって死ぬというのがこわくてですね。まただれも集まって来てないのも不安なことでした。ここにはおれないから、もとの壕の中でみんないっしょに死のう、と私はおじいさんおばあさんにいい聞かせて、引き返すことにしたんですよ」(甲B45p158〜160)
『その日(3月26日)の夜、校長先生は、それではみんな、最後の覚悟をして、身なりをととのえなさい、とおっしゃってから、みんなに天皇陛下バンザイをうながして、そしてみんなで三唱しました。 そしたら、山城の姉さんが、手榴弾を一発やったんですよ。… そしてそのあとで、校長先生が、いいか、とおっしゃって、自分の奥さんの首を剃刀で切ったんですよ』(甲B45p161〜162)
(3) 『母の遺したもの』(甲B5)
    美恵子は、盛秀らが自決した「農業組合の壕」の自決前の状況を体験した貴重な証人である。
   「(空襲2日目の3月24日の夜遅く、家族を連れて農業組合の壕に移動している)通帳や帳簿を預かっていたため、この壕に行くのが無難だと思った。−中略−そこには重量書類も保管されているため、一般住民の立ち入りは禁止された。」(甲B5p114)。「(農業組合の壕は)臨時の“役場”が設置されたかのようであった。」(甲B5p114)、「(3月25日の午後から、空襲に続いて艦砲射撃が始まる)役場職員は緊張感をみなぎらせ、壕を出入りして情報収集をはじめた。壕の入口では、重要書類を償却する職員の姿も見られた。」(甲B5p115)
「夜になって、『米艦隊が島の周りをとりまいている』という伝令の声に、全員が騒然となった。備蓄している食糧は、全住民に配給されることが決まり、各壕に伝えるよう使いが出された。村長を中心に、職員らが慌ただしい動きを見せはじめた。この緊迫した状況から、危険が間近に迫っていることを美恵子は察した。」(甲B5p115)。「そして夜遅く『玉砕命令がくだった。忠魂碑前に集合』と、伝令の宮平恵達が、壕内の人たちに大声で呼びかけた。」(甲B5p115)。この言葉を聞き、美恵子は、身を整え忠魂碑前に向かうが、誰もおらず、再び「組合の壕」に行くが、既に「組合の壕」は中から鍵が閉められ村の指導者たちは自決していた。
※ 宮城初枝は、米の配給の伝令(甲B5p37)の後、盛秀らが、梅澤隊長に面談し、「若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」との助役盛秀らの申出を断れた、その後、「ところが途中、助役は宮平恵達さんに、『各壕を回って皆に忠魂碑の前に集合するように……』 後は聞き取れませんが、伝令を命じたのです。」とあり(甲B5p39、40)、美恵子の証言は、この梅澤隊長から申入れを断れた後の出来事を証言するものである。
(4) 小括
    美恵子は、「集団自決」の事実は語ってはいるが、《梅澤命令説》の根拠にはなり得ない。危機が段階的に迫る様子がリアルに再現されている。

9 宮平(宮里)米子
当時座間味島在住。当時国民学校最上級生(今の中学2年生。14歳。)「農業組合の壕」の近くで、盛秀らの「集団自決」の事実を目撃している。(后
(1) 『母の遺したもの』(甲B5)
   「農業組合の壕近くにやってきたときだった。絞り出すような男の声が聞こえた。
『とー なまやしが、へーく(さあ、今だよ、早くしてくれ)』とくり返している。
    米子がのぞいてみると、胴体いっぱいに弾丸を巻きつけた助役の宮里盛秀が、抱き合うように身を寄せ合っている一組の家族に銃を向けているところだった。老夫婦を中心に子どももおり、助役の親戚のようだった。
    老人は再び『盛秀 へーく なまやしが』と促した。
    しかし、助役は体を震わせ、なかなか引き金を引こうとしない。そのうちに一人の子どもが泣きだした。
    すると老女が助役の銃の前に立って手で制し『なー しむさ(もういいんだよ)、なー しむさ 盛秀』と、逆に助役を慰めるように銃を下ろさせた。
    ちょうどそのとき、『伝令!』と言いながら宮平恵達が息せき切ってやってきた。
    そして助役に敬礼し、『敵はただいま座間味に上陸しました。』と報告した。時間は三月二五日の夜更けか、二六日の未明である。米子には確かに敵が上陸したと聞こえた。」(甲B5p121)
その後、「ここは役場職員の家族が入ります」と言われ、米子家族は、「組合の壕」から追い出される。
   「当時の一般住民からすれば、役場職員はこわい存在であった。米子の家族は危険を感じながらも、続々と戻ってくる人たちと壕を入れ替わった。そのなかに、米子の同級生で収入役の長女の美智子がいた。美智子は米子の顔を見るなり笑みを浮かべて、『ヨネさん、さようなら。元気でね』と言った。
    米子は、どういして美智子がそんなことを言うんだろうと、不思議に思った。この段階で、美智子は、すでに死ぬ覚悟をしていたようである。」(乙5p122)
   ※ 盛秀らは、盛栄・春子と別れ「組合の壕」に戻り、その後自決をしている。盛秀らが「組合の壕」に戻り、自決するまでの瞬間を目撃したのが、米子である。 

    また、幼い子供(米子の1歳の末妹)を抱える米子は、当時の住民の心理状態を表す事態についても体験している。
   「突然、米子の末妹(一歳)が泣きだした。前日から飲まず食わずである。まだ言葉も十分でない妹は、何かを訴えようとしている。母親がどんなにあやしても、妹は泣きつづけた。すると壕の奥の方から、『その子どもを殺せ、アメリカーに見つかるじゃないか」と低く抑えるような声が聞こえてきた。母親は最初は無視してたが、泣きやまない子どもに、あちこちから『殺せ、捨ててこい』の声が飛んできた。−中略−』(乙5p126)
    著者宮城晴美はいう。
   「こういう体験は、当時幼子を抱えたほとんどの母親にあった。いったん、『生』への執着が甦り、自分の家族を米兵から守ろうとする人々は、その邪魔をする者はたとえ子どもであろうと、容赦しなかった。それは、同じように子どもを抱える母親同士の対立ともなった。よその子の泣き声に対しては、感情を露わにする母親が少なくなったからのである。九歳を頭に三人の子をもつA子は、実際、よその子を殺そうとまでした」(乙5p127,128)
   「(九歳を頭に三人の子をもつA子は、実際、よその子を殺そうとまでした)A子のみならず、住民は、正気を失っていた。」(乙5p129)
(2) 『潮だまりの魚たち』(宮城恒彦著)【2004年6年23日】(甲B59)
   「第八話 泣く子は」(p142〜)に、「宮里米子」として証言が収録されている。ほぼ、上記『母の遺したもの』(甲B5)と同じ証言である。
(3) 小括
    《梅澤命令説》を語っていない。村の指導者を「こわい」と表現する。当時の住民について、「正気を失っていた」と証言している。米子は、宮里美恵子に続き、盛秀らの行動を目撃し証言する貴重な人物である。盛秀らによる「集団自決」の実態を、証言する。

11 松本光子
座間味出身、当時19歳。(后
(1) 『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)
「私たちは、死ぬときはいっしょだっていいかわしながら逃げました。お父さん、お母さん。姉さんたちにその子供たち、十人以上いました。そうして山の中に部落の人が集まっていたとき、上の人から − いえ、兵隊じゃなくて、役場や青年団の人 − 玉砕しろって、手榴弾を手渡されました。私たちは、死にきれなかったんです。一家みんな玉砕したところもあって、恥ずかしい気がしましたけれど…。」
(2) 小括 
    「兵隊」ではなく「役場や青年団の人」から手榴弾を手渡されたと述べている。実際に手榴弾を受け取った人物である。《梅澤命令説》をすり替えて主張されている《手榴弾命令説》でさえ崩壊していると言わざるを得ない。

11 宮里トメ
author:南木隆治, category:-, 22:09
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