RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, pookmark
第1 渡嘉敷島の巻
第1 渡嘉敷島の巻
1 金城武徳
当時14歳。被告側証人となった金城重明と同級生であり、「集団自決」の体験者である。渡嘉敷村で教育委員を歴任し、現在、渡嘉敷島において、当時を語る。《赤松命令説》を完全否定する(后法
(1) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)
「(27日、米軍上陸後)僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う」
「この人は、あっちこっちの避難小屋を巡って、『軍ヌ命令ドゥヤンドー、ニシヤマ(北山)ンカイ、避難シイガ、イカントゥナランテンドー(軍の命令で 北山に避難するよう、行かないと駄目だぞ)』と伝えていた。
    伝令にいわれて、うちの母は『ナー、ワッター、ナマドゥ、チョークトゥ、ワラビンチャーン、アミンカイ、ンダチ、チャシン、シヌアタイヤレー、シマウティ、シヌサ、マーンジ、シナワン、ヰヌムンドゥヤクトゥ、ワッター、ナー、マーンカイン、イカンドー(私たちは、今ついたばかりだし、子どもたちも雨で濡れねずみだ。どうせ死ななければいけないものなら、何処で死のうが同じ事だ。私たちは、此処を動かないよ、村で死ぬ事にするから。)
    母が伝令にそういうと、おばさん(母の従妹)が『姉サン、アンイチン、ナユミ、チュヌ、イチュニトゥクマヤ、イチルスル(姉さん、そんなこといわないで[村の]人ひとの行くとこは、行かんといけないのじゃないの)』といった。』(乙9p395)
※ 「軍の命令」で、避難するよう言われている。しかも、被告らの主張によれば、絶対的であるはずの「軍の命令」を断ってもいる。被告らの主張が、如何に事実に沿わないか、明らかである。
「それからまた、準備をして、雨の中を『軍ヌ命令ドゥンヤンドー(軍の命令だ)』と、伝令がいった所を目指して出発した。
    オンナガーラを出て、途中、部隊本部になった所を通りかかると、兵隊が壕を掘っていた、それを見て『あ、やっぱり軍の命令なんだ、僕らを保護するために壕を掘っているのだな』と、思った。」
※ ここでも、「自決命令」ではない。《集合》を「自決命令」と捉えるのは証言から考えても明らかに無理がある。
「二八日の三時頃(注 集まれといわれたのが午前10時である。)、玉砕がはじまった。」(乙9p396)村長の万歳三唱がはじまる。
「一緒にいた防衛隊の人たちが『此処で死ねなかったら、今度は、本部に行って機関銃を借りて死のう』と、いうことで『ついて来い』と、いわれて、僕らもワーワーしながら本部に行ったら、軍の本部だから民間人は入れないのに、ワーワー騒いでしまったので、将校連中はワヂッて(怒って)、また、僕らがなだれ込んだために、アメリカーに迫撃砲をバンバン撃ち込まれた。
   僕らは、兵隊に『出て行け、出て行け』とどなりつけられ、田所中尉なんか、僕をにらんでいっているのかなと、思うほど、ブーブーいっていた。
    やがて弾もおさまって、今、第二玉砕場と呼ばれている所に避難しろといわれ、そこに移動した。」(乙9p396)
   「一番恐ろしかったのは、基地隊といってね、支那事変から帰ってきた連中でした。朝鮮人軍夫が、この連中に斬られるのか簡単だった。渡嘉敷の住民も虐殺された。
   僕の記憶では、七人も殺されている。」(乙9p398)
 ※ 「防衛隊」から「死ねなかったら」「機関銃を借りて死のう」と行って、陣地になだれ込んでいる。「なだれ込んだために」「迫撃砲」を撃ち込まれたともいっており、軍が、陣地から追い出そうとした理由も明確に記載されている。軍は、戦闘中であることを忘れてはならない。兵隊らの行動は、「自決命令」とも相容れない。自決命令が出ているのならば、遂行されるはずの行動が一切ないのである。
(2)『沖縄戦ショーダウン』(1〜13)【平成8年6月連載】(甲B44)
「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」
(3)『妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった』(甲B38)
「村(渡嘉敷村)の幹部が騒いでしまって、来るべきものが来たんだと思ったんでしょう。両方の谷間に避難してるのを集めて、当時の村長が訓示して、天皇陛下万歳三唱して、どこからもってきたのか10〜20名に一、二個ずつ配られている手榴弾を突いた訳です」(甲B38p324最下段)。
  金城武徳は、軍命令について
 「はい、違います。これは軍の命令ではないです」
と明確に否定し、当時の鬼畜米英の教育から「皆同意でやった」とするが、
   「マスコミとかが言いたい放題で、軍の命令で集団自決しているんだ、という事を言うんです。」
   「60年前の戦争のことは、1つも忘れません。全部覚えています。とにかくどうせ死ぬんだから、一人一人殺した。お父さんお母さんを殺すということは、愛ということでしかならない」
と証言する(甲B38p325)
   なお、同著者は「金城氏の証言から浮かび上がってくるのは、島民同士、家族同士が互いに殺し合う状況が、軍による強制的な自決命令ではなく、村長をはじめとする村の幹部によって、ごく自然に行われたということである。…彼らはサイパン島玉砕や隣の座間味島の集団自決を既に聞いており、それに続いたのである」という(甲B38p325・2段目)。
   ※ 「とにかくどうせ死ぬんだから」という当時の気持ちを素直に証言している。「お父さんお母さんを殺すということは、愛ということでしかならない」と曽野綾子と同じ説明をしている。当時に沖縄の住民において、このような表現をしている人物もいるのである。
(4) 『DVD』(中村粲撮影)【平成10年4月】(甲B52の1)とその『映像反訳書』(甲B52の2)(なお、下記の頁番号は、甲B52の2のものである。)
   渡嘉敷島で集団自決を体験した金城武徳は、『鉄の暴風』や『秘録 沖縄戦記』に記述されている赤松命令は「全くのうそ」と言い切り(甲B52の2p3)、一番真実に近いのは住民からの聞き取りに基づいて書かれた『ある神話の背景』(甲B18)であるとしている(乙52の2p21)。
「もうあの時に赤松さんが言った言葉は、『なんで軍人が戦をするんだって、住民は生きられる限り生きるのが本当だのに、なんでこんな早まったことをしたか』ということを言ったらしいですよ。それは警察官のアサトさん、あの人が聞いて話しとったんですよ。」(乙52の2p5)
「だからその手榴弾をですね、どこからあったというと、結局泥棒してるわけですよ。だから隊長そう言っていましたよね、大阪で。兵器係から手榴弾が2箱盗難にあっていますという報告があったそうです。」(乙52の2p16)
 「そしてあの時、村長がですね、当時の村長が『天皇陛下万歳』言った時に、あの安里喜順は、あの人も元々安里って言よったんですよ。警察官は鉄棒持ってますよね。雨が降って地面もぬれてるんだから、あの鉄棒をこうして座って、こうしとったんですよ。寝ないんだから。頭でも痛かったんじゃないですか。そしたらあの村長が訓示していて、天皇陛下万歳言った時に、その安里さんは、『米田ヨシノブは気が狂ったなあ』と。あの本にもちゃんと書いてありますよね。いかに止めようとしても止めることできなかったと。」(乙52の2p23)
(5) 小括
金城武徳は、正に集団自決の現場にいた目撃者であり体験者である。村長の訓辞も安里喜順巡査(これは兇領場である。)の側で聞いている。《赤松命令説》を完全否定する証言である。『沖縄県史第10巻』(乙9)では「たけお」と呼ばれているが、同一人物である。金城武徳は、北山の方への移動、村長の万歳三唱も「自決命令」と捉えていない。また、自決後、本部から出て行くように、避難するようにと「自決命令」とは相反する行動も認められ、《赤松命令説》の虚構性を語っている。

2 大城良平
渡嘉敷村阿波連出身、元第三戦隊第一中隊付防衛隊であり、集団自決の際に、妻と子供が「半殺し」の目にあっている。後に、赤松隊長ら赤松隊員の慰霊祭への誘いに賛同している(甲B70)(掘法《赤松命令説》を完全に否定する。
⑴ 『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)p126〜127
  「支那戦線から負傷して島にもどったが、私はこのころ(昭和十九年以降)また防衛隊の召集うけて、第一中隊の分隊長をしてた。……個人的ないきさつで赤松さんと接する機会もあったが、赤松氏(当時二十五歳)はできるだけのことをやったんだ。陸士の金時計組、いまのことばでいうとエリートの軍人かな……だったから、軍規にはうるさかった。これが誤解のもとになったかもしれん。」(甲B21p126)
  「……勝つためにやった行為で、失敗ばかりを指摘されるが、負けたために一方的に“悪く”いわれる部分があることを、一言いっておきたいです。」(甲B21p127)
※ 「自決命令」に関する記載はない。「できるだけのことをやった」という証言、一貫して赤松を擁護する証言は、《赤松命令説》を否定する証言である。大城は、防衛隊員であり、島の住人である。万一、《赤松命令説》が真実ならば、当時においても戦後においても黙ってはいられない立場にあるのである。 
(2) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p778〜783
「渡嘉敷島の戦争について、書かれたものと実際に体験した人の証言に多少食い違いがあって真実がいろいろと変えられているような感じがします。私も日本兵のはしくれとして、一生懸命やりました。それが記録には日本軍の悪口ばかり残っており、大変残念に思っております。」(乙9p778)
「捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。
    敵につれ去られていって、四、五日してから帰って来る。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地のものですから、事情に詳しいので、上官は私を側において取調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目でみられる。これが大変つらかったです。
    渡嘉敷はあまりにも内部の問題が多すぎました。戦史の中では、いろいろな記事が出たり、中には間違ったものもあると思います。私は板ばさみのつらい立場から、その内部問題にふれてみます。」(乙9p780)
「集団自決は私の家内と子供も半殺しにあって、今家内の傷あとを見ると、よくも生きられたものだと、人間の生命力に感心しています。
    家内の体験はむごいものです。手榴弾が発火しないので、お互い殺し合いが始まり、家内は確かに何人かを棒で殴ったし、自分もさんざんクワのようなもので頭といわず胴といわず殴られ、米軍に救われた時は自決の日から三日たっていたといいます。
あの日は米軍の攻撃も激しく、何が何やら全然わからなかったそうです。この辺の真実はどう文章で表現するかが問題です。遺族は運命だとあきらめています。
    赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状況に来ていたのです。
    私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。
    ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。
    それに『はずみ』というものがあります。あの時、村の有志が『もう良い時分ではないか』といって、万才を三唱させていたといいますから、それが 『はずみ』になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたいたといいます。
    その時、村の指導者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやったと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。
   自決の日から二日目、私は中隊長の命令で、東川の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。
    そこが第二玉砕場です。ここでも自決したのかどうかわかりませんが、自決場から逃げてここまで来ると、アメリカの迫撃砲が雨のように降って来て、死傷者が出たということです。
    生き残りには阿波連の人が多いようでした。その中に、弟と親がいましたが、家内と娘はどこにも見あたりませんでした。私は持参のタバコと水を置いて、戦争はどうであろうと仕方がないが、生命はぜったいに粗末にするなと、励まして帰って来ました。
前にもちょっとふれましたが家内と娘は、自決場で手榴弾が発火しないので、したたかにクワのようなもので殴られ、三日仮死状態ののち、アメリカ軍に助けられたとのことです。・・・」(乙9p781)
   「私の家内は自決を体験し、また人のすることも見ているので、真実を知っております。しかし真実の表現がむつかしいのです。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い影響として残ります。大城徳安氏の場合も軍には何も悪いことはありません。」(乙9p781)
  ※ 家族に対して、生命は粗末にするなと言っている。《赤松命令説》とは矛盾する行動であり、《赤松命令説》の虚構性を示すものである。防衛隊の証言は数少ないが、翻って考えるに、防衛隊員は、本質的には島の住民であり、家族が島にいる。赤松が非道な《命令》を出しているのであれば、防衛隊は間違いなく、それこそ命をかけて反発するはずである。防衛隊員が「集団自決」に関与したということは、防衛隊員自身が、自決の意思を固めて、実行したことに他ならない。
(3)『沖縄戦ショーダウン』(1〜13)(上原正稔)【平成8年6月連載】(甲B44)
「私は自分の妻が自決したと聞き、中隊長になぜ自決を命じたのか、と迫った。中隊長は『全く知らない』と言った。赤松隊長は『村の指導者が"住民を殺すので機関銃を貸してくれ"と頼んできたが断った』と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はないでしょう」(甲B44・6・1段目)
(4) 小括
    大城良平は、元防衛隊員であり、自ら家族に対し「生命は粗末にするな」と言っていたにも関わらず、妻と子供が「集団自決」により、他の島民から「半殺し」の目にあっている。明確に《赤松命令説》を否定している。大城は、防衛隊員であり、後に中隊長に詰め寄ったように、非道な《自決命令》を甘受していない。《赤松命令説》が真実ならば、必ず防衛隊員からの命をかけての反発があるはずであるが、それは一切確認できないのである。やはり、《赤松命令説》は虚構である。

3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(供
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
  ※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない。
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
   『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
    《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369〜372
   「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
    しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない。
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。

4 古波蔵(米田)惟好
当時、渡嘉敷村村長。村の最有力者である。(供
(1) 『週間朝日1970年8月21日号「集団自決の島−沖縄・慶良間」』(中西記者)(甲B20)
「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか。一番ハラが立つのは、わたしが『機関銃を貸せ、足手まといの島民を撃ち殺す』といったということです。村民を殺したいという村長がどこにいますか。機関銃を借りにいったのは、わたしが自決に失敗した後なのです。敵が接近しているので、敵を撃ちまくってやるといって、頼みにいったのです」
   と語り、部隊に機関銃を借りに行った事実を認めている。(甲B22p22)
※ 中西記者は、曽野綾子と同じく、実際に渡嘉敷島へ行って取材をしている。
    古波蔵(米田)惟好村長は、赤松部隊に、機関銃を借りに行った事実を認めているものの、それは、足手まといの島民を殺すものではなく、「敵を撃ちまくってやる」からという理由となっている。この食い違いについては、『ある神話の背景』(甲B18)で、曽野綾子は、次のように記載している。
   「只、この異常事態の中では、かりにそのどちらであっても、辻つまは合うのである。村民を殺したい、というのも、憎しみからではない。死に切れない人をラクにしてやるというのも、当時の物の考え方からすれば村長という立場に必要な家父長的な態度であったかも知れない。赤松隊長が古波蔵村長について、そのような印象を持ち続けているというのも、一概に相手を非難する意味ではあるまい」(甲B18『ある神話の背景』p128,129)。
(2) 『ある神話の背景』【昭和48年発行】(甲B18)
   「敵が上陸した日は1日どういうふうにお過ごしでしたか」
   「つまり敵は阿波連と渡嘉志久方面から上陸して来ましたですね。それで軍の方も引上げて西山高地へ行ったんです。今の基地の下側の方です。そこに軍は動いた。我々の方は、こんど、そこへ行く手前の恩納河原ですね、そこはずっと川がありましてね、山の際で狭いですから、飛行機の爆撃が来ても、まあ、安全地帯な訳です。そこが砲弾の死角に入るんで安全地帯だと思われたので、そこに陣取っておった訳です。」
「恩納河原へ行くということは、誰いうともなく?」
「誰いうともなくです。そこで一日を通してその翌日の晩、大雨降りです。」(甲B18p117)
「玉砕場にいらしてどうなさいました?」
   「初めからそこを玉砕場と決めていた訳ではないですからね」
   「それは勿論そうです」
     録音機の中の私の声は慌てて訂正している。
   「そこへ集結したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持って来るでしょう」
「配られて何のためだとお思いでした?その時もうぴーんとわかったんですか」
「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですか」
 「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て……安里巡査も現場にきてますよ」
  「そこで何となく皆が敵につかまるよりは死んだ方がいい、と言い出したわけですか」
  「そうなってるわけですね。追いつめられた状況、手榴弾を配られた状況」
  「しかし配られても、まだきっかけがないでしょう」
  「その後に敵が上がってきたわけです。迫撃砲がばんばん来る。逃げ場がないです……これだけははっきり言えますが、安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって十五米ほど離れて谷底にかくれていましたよ。君も一緒にこっちへ来いと言ったら、そこへは行かない。見届けますと言って隠れていました。」
  「それから誰がどういうふうにして皆、死に出したのですか」
  「そういう状況ですからね、お互いに笑って死にましょう、と」
  「ですけど、手榴弾を抜き出したきっかけのようものがあったんですか。たとえば、かりに誰かがいよいよ決行しようと言ったとか」
  「決行しようは、ないですね。敵が上陸したということが、まあ、いか(け)ないというということですね。何にしてももう決行しようとということになって」
  「皆、喋ったわけじゃなくて、そういう気持になったわけですか?」
  「はい、気持になっているわけです」(p118,119)
「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
  「ありません」
  「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」
  「そうです」
  「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
  「私へ来るんです」(p122)
 ※ 上記の中で、古波蔵惟好村長は、重要な証言をしている。
     ―乎勅決決行の切っ掛けについて、『敵が上陸』と語っている。
    ◆^体ご扈臀篋困鯆未昂前奮阿法軍が直接命令をすることはない。安里喜順は、村長である古波蔵の下に来る旨明確に証言している。しかし、安里喜順巡査から、命令が来たとは言っていない。すなわち、《赤松命令説》を否定しているのである。
(3) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p767〜769
「私たちは、米軍が上陸すると恩納河原に向かっていた。恩納河原には格好な隠れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に別れていて、左右は絶壁である。」(乙9p767〜768)
「安里喜順巡査が恩納河原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。
    まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。」(乙9p768)
「上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。それでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
   集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。
   安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。『貴方も一緒に・・・・この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決を出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。』(乙9p768)。
  ここから集団自決の描写(乙9p768)
「私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向かった。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぽは騒いでいる住民に向けられ、発砲の音も聞こえた。自刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。」(乙9p768)
「私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いにくるから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。
   生き残った中から看護婦の心得のある者を探し出し、防衛隊が救い出して、陣地に運んだという十数名の村民の看病に当てられた。」(乙9p769)
  「私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度にもち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。」(乙9p769)。
※ 『沖縄県史第10巻』(乙9)は、多数関係者の生の証言を収録している。この中の証言をみれば、《赤松命令説》、《梅澤命令説》の虚構は明らかである。古波蔵惟好村長でさえ、《赤松命令説》を語っていない。古波蔵惟好村長は、安里喜順巡査に対して、自決を誘い、安里は、「この状況を赤松隊長に報告しなければならない」と語ったと証言しているのである。

5 比嘉(安里)喜順
集団自決当時29歳、元渡嘉敷村の駐在巡査、赤松大尉の指示を村民に伝達する立場にあった。一貫して《赤松命令説》を否定する人物である。(供
(1) 『週刊朝日1970年8月21日号「集団自決の島−沖縄・慶良間』(甲B20)
   「艦砲に撃たれて、防衛隊員は戦意を失墜し大あわてでした。住民が集結したら、防衛隊員が『こりゃだめだ。捕虜になるより死んだ方がいい』と言い出したのです。そこで村長をはじめとする村役場の幹部5、6人が自決の相談をして、部隊へ1人を走らせたのです。わたしは傍らでそれを見ていたからよく覚えています。連絡が部隊に着くか着かないうちに、一角で米軍の機関銃がパンパンと鳴りはじめ、防衛隊員が手榴弾をかかえて家族とともに自決をしはじめたのです。早まったことをしたなと思いましたがもう手のつけようがなかった」
   と証言した。(甲B20p22)
(2) 『潮「集団自決を追って」』(星雅彦)【昭和46年11月発行】(甲B17) 
   作家星雅彦が証言をまとめたものである。
「3月27日夕方、西山の谷間の陣地で赤松隊長に会った安里巡査は、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけたところ、赤松隊長は、次のようにいった。『軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一カ所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう』(安里証言・甲B17p208)
「およそ千人が西山盆地に集まった。集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や防衛隊の幹部らが集まってなにやらしきりに協議していた。『これからどうするかという意見を出し合ったが、話合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃げられなくなった』(安里らの証言・p210) そこで気丈な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見がでたが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、『友軍の爆薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか』と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった。(甲B17p210)
「『・・・どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい』とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、『手榴弾が爆発するときは手にしっかり握っていたほうがよい』と助言した。それからまもなくして古波蔵村長がみんなの中央に立って、『敵に取り囲まれたてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう』と、声をふるわせながらいった。 急にしーんと静まり返った。・・・遠くで誰かが『発火用意、打て!』と叫ぶと同時に、ぱあーん、ぱあーんと、続いて手榴弾の炸裂音が聞こえた。」(甲B17p211)
「村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して『女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!』と叫んだ。その意志を素直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆け込み、『足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸して欲しい』と願い出て、赤松隊長から『そんな武器は持ち合わせていない』とどなりつけられた(安里、伊礼蓉子らの証言。その点、古波蔵村長は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)。」(甲B17p212)
「阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている棍棒で撲殺するのだった。その中の金城重明(現牧師)という16歳の少年がウシの側へ寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径10センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押さえて後込みしている長女の頭へたたきつけた。・・・。」(甲B17p213)
(3) 『ある神話の背景』(甲B18) 
恩納河原へ行く前に分散していた村民を集めた理由について(甲B18p123〜)
「私は地理がわからないので、赤松大尉を探すのに一日かかったわけです。私が、渡嘉敷島へ来てから赤松隊長に会ったのもその日が初めてですからね。」(甲B18p123)
   「自決の日が!?」
「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、また、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。
しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからないせっぱつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなったわけです。」
   「それで恩納河原が比較的安全な場所だということになった訳ですか」
「私としては比較的安全な場所と思ったわけです、しかも友軍のいるところとそう離れていませんし」
   「すると恩納河原へ避難せよという場所の指定はなかったんですか?」
「場所の指定はないですね。思い思いに避難小屋を作ってあったんですよ。」
「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」
「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ。敵はもう上陸してくる。とにかく山の中で一応かくれておこうと、避難させたわけですよ。隊長も、生きられるまでは生きてくれ、そういう趣旨のもとに、部隊の隣のところに、状況を見ながら……そういうことだったですがね。戦争のどさくさにまぎれて、皆、あの時、おしつけなかったですからね。集めたら、こういう結果になってしまって、村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい、その時、私は生かすために、ここ迄苦労して、避難して来たのにね。雨の中を皆、つれて来たのに……敵もおらんのに、どうして死ぬことができるか、とわしは反対(したんです)……生かすために連れて来た、隊長もそういうお考えで、こっちに、近くで静かにしているように、戦闘の邪魔になるからですね。そういうこと、言うたわけですよね。
 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますからね。恐怖に駆られて……この戦争にあった人でないと(この恐怖は)わからんでしょう。だから、しいて死ぬという、自決しようという、部隊が最後だということの○○(一語不明)を受けて、死のうという。私は今のままなら死ねないなあ、と言ったんですがね。」
「村の主だった方はあの狭い沢の中で死ぬということについて相談をなさったんですか」
「はい、その人たちは、もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、もうこれは当然、捕虜になるよりは死んだ方がましだということになって、日本人だという精神じゃっていって、やむを得なかったですね。ことに離島であって、離島になればなるほど、そういう精神が鞏固ですよ。私はあく迄生きるために来たんだから、しいてあれなら、アメリカ兵が来て、一人でも会って戦闘でもして(から死のうと思ったのです)、部隊がもう最後という時に、一人は部隊のレンラクに出た筈ですよ。その時に、敵の手榴弾、艦砲と共に手榴弾投げた音があったんですよ。それをもう友軍の最後だ、斬り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ」
「重大決定をなさろうとしていらした時はどういう方々がいらっしゃいましたか」
「自決する時ですか」
「はい」
「村長とか防衛隊の何人か、役場関係の人もおったと思いますが」
「それで、どうしても死ぬということに……」
「ええ、どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて……わしはどうしても死ぬ前にアメリカに対抗してでなければ死ぬ気なかったです。それだけははっきりしています」
「レンラク員を部隊に出しました。その時に突然、友軍とアメリカ軍の射撃があったわけですが、それをもう部落の人は、友軍の最後の総攻撃だと思い違いしてですね、ひどかったもんですからね。死にたい死にたいということで……」
「きっかりと万歳を三唱なさったという説もありますが」
「とにかく、一たんは万歳といったわけです」
「それは誰かが万歳を主唱したという訳ではないんですね。なんとなく……」
「ええ、なんとなくやったわけじゃないですかねえ」(〜甲B18p127)
 「友軍の近くにいれば心強いというのはあの当時の誰もが持っていた気持だと」安里氏はいう。(甲B18p127)。
「自決の後はどうされましたか」
「重傷者は置いてですね。それから友軍の機関銃でも借りて、死のうということになって、残って歩ける人たちは行ったです。ところが部隊は、今うちこまれるから、危険だから……又、部隊だって機関銃かすわけはないですよ。その時に皆集まって、がやがやするもんだから、敵の探知器に知られて、ひどくうちこまれたですよ。それからはもう、皆死ぬ気持がなくなったわけですよ。今まで死のうとしたんですけど」
「第二玉砕場には、それからいらしたわけですね。」
「はいはい」(甲B18p127)
当時の赤松隊の状況を、『ある神話の背景』(甲B18)は、一隊員の証言を引きながら、次のように記載している。
「かりに、あの時、自決命令、出したとしても、とても、伝令が、あの場所まで辿りつけなかったんじゃないかな。皆稜線の上にへばりついていて、伏せながらも、まだ一糎でも体低くしようとして、木の枝なんかでお腹の下掘ってた状態ですからね。向こうも、整然と集まってたわけじゃないでしょうし。平和な時に、考えて、数百米離れたところにある、小学校の校庭で、整然と並んでいる生徒に何かを伝えに行くような訳にはいきませんからな」(甲B18p129)
(4) 『沖縄県警察史第二巻(昭和前編)』(沖縄県警察本部)【平成5年3月発行】(甲B16)
「安里巡査は、住民の避難誘導について相談する為に赤松隊長に会い『これから戦争が始まるが、私たちにとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか』と相談した。すると赤松隊長は、『私たちもいまから陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、『なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう』と言った。・・・全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。」(甲B16p773〜774)
「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。・・・集まった防衛隊員たちが、『もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい』と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れてきたのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので、言っても聞かなかった。そこで、『じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡を取ってからその返事を待って、それからでも遅くはないのではないか』と言って部隊長の所へ伝令を出した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で『天皇陛下万歳、天皇陛下万歳』と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として手榴弾を持っていたと思う。その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発弾が多く玉砕できない人たちがいた。」(甲B16p774〜775)
 「玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩ける者は一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲が撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。その時友軍に、『危険だから向こうに行け』と言われて、元の場所に帰ってきた。」(甲B16p775)
 「玉砕してから恩納河原の避難小屋に集まり避難生活が始まった。食糧を探すのに必死だった。・・・赤松隊長は、『私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きてください』と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。」(甲B16p775〜776)
(5) 『光の泉「沖縄・渡嘉敷島の集団自決戦後51年目の証言」』【1996年7月】(甲B43)
    《赤松命令説》を明確に否定する証言をしている。
「米軍上陸の3月27日、比嘉(安里)は、ぐるりと米軍が取り囲んだ状況で、まず、赤松大尉に会うことだと考え、村民をどうしたらよいかを赤松大尉に相談した。赤松大尉は、これに対し、『我々は今、海から揚がって陣地構築を急いでおるところですから、作戦の邪魔にならない、部隊近くの安全な所に避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ』と言われました。
私たちも部隊の近くは安全ですから『じゃあ、そうしましょう』と、あちこちの避難小屋を歩きながら、部隊近くに集まるように伝令しました。」(甲B43p45上段〜下段)。
※ 住民が部隊近くに集まるようになった経緯が詳細に証言されている。「村民をどうしたらよいか」という「相談」に対する話し合いが、「命令」「強制」「誘導」等抽象的な「評価」としてではなく、その具体的な話の中身が「事実」として生々しく証言されている。「我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」という言葉には、どこにも強制性はない。

   また、その後の経緯についても詳しく証言している。
「私は地理が分かりませんが、地元の人はよく知っております、どの部隊がどこにいるか、どこが一番安全か。村長さんも村民に伝え、それは人から人へと自然に伝わっていったんです。大雨の中、一晩かかって思い思いに集まったところが、玉砕の場所になったわけです。谷と谷の間のちょっとした広場でした。」(甲B43p45下段)。
「私は支那事変での戦争体験がありましたから少しは落ち着いておられましたが、離島の人たちには初めての戦争でしょう。心の動揺を来したと思うんです。村長さんも、防衛隊(現地召集兵、家族と一緒に戦っていた)も捕虜になるよりは自決したほうがましと、村の幹部がそういう意見になってしまったんです。それで私は村の幹部に言うたです。『戦争は今から始まる。まだ、敵も見ていないし、自決するためにみんなを集めたわけではない。生かすためにみんなを連れてきた。交戦もしていないのに、どうして早まったことをするんだ。死ぬのはまだ早い。』と、私も村の指導者ですから、自分ひとり死なないとは言えない。しかし、敵と交戦もしないうちに死ぬつもりはなかった。」(甲B43p45下段)
「皆、艦砲と飛行機から撃ちまくる弾の下で、半狂乱になっていますからね。どうしても死ぬ、死にたいという。日本人の精神じゃ、と言って。私もいつまでも一人我を通すわけにはいかず、『それなら、あんたたちに任そう』とサジを投げてしまって、側に退いて状況を見ておったわけです。私は部隊に報告する義務がありますからね。」(甲B43p46上段)。
※ この後すぐに手榴弾による集団自決が始まるわけであるが、「不発が多くて死んだのは何名かでしょう」(甲B43p46上段)。その後、機関銃を借りにいって赤松隊長に断わられたことが証言されている。これは、「集団自決命令」とは相容れない行動である。

「それから友軍の機関銃でも借りて死のうと、生き残って歩ける者は部隊の陣地へ押し掛けていったんです。私もついていきましたが、向こうでも止められたですよ。部隊だって機関銃を貸すわけではないです。」(甲B43p46上段)
   自決の報告を聞いた赤松大尉は、「早まったことをしてくれた」と言われた(甲B4346p下段)。
   赤松大尉の人間性についても言及されている。
「部隊の食糧倉庫が海岸ばたにありました。そこに米が積んでありましたが、赤松さんは、その米を民間と軍とに半分分けしたんですよ。防衛隊も皆手伝って、私が立ち会って分配したんです。自分の食糧もないときに。『部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄でも食べて生きられるだけ生きなさい』となったわけです。」(甲B43p46下段〜)。
そして、赤松大尉が命令を出していないと断言している。
「赤松さんは命令を出してもいない。命令を出せる時期でもなかった。海から揚がって、すぐ陣地構築、それで精一杯でしたから。赤松さんは非常に申し分のない人格者でした。」(甲B43p48上段)。

なお、赤松大尉は、これに関して、『ある神話の背景』で、次のとおり述べている(甲B18p103)
「安里さんの記憶では、西山の複廓陣地へ移ってから私を捜して来られたということになっているようですが、私はどうしても、旭沢で安里さんに会っているような気がしてならないんです。勿論、私の記憶違いかも知れませんが、複廓陣地へ移ってからは、村民の方と殆ど接触がなかったように思いましてね。
    そこで初めて村の人の話が出たんです。
    安里さんは、要するに私のところへ情報を聞きに来られた。敵はいつ上がるんだ。どこへ逃げたらいいんだ。もっともな質問です。しかし、私も正確には答えられない。
    上陸は多分、明日だ。部隊はこれから、西山の方へ移って、そこへ陣地を作るつもりだから、と答えた。住民は−私は前にも申し上げたように、自分自身は今頃は出撃して死んでいる筈だったから、住民対策は誰かがやってくれると思って、実は殆ど考えたことがなかった。弱りました。
    しかし、部隊が西山へ行くんだから、そちらも、近くの谷へ移ったらどうですか、と安里さんに言った。深い意味があった訳じゃありませんが、それが自然のなり行きだったような気がするんです。まあ陣地が作れる程度の所があれば、その陰に住民が隠れる、という感じでした。」
(6)『沖縄戦ショーダウン』(1〜13)(上原正稔・訳注)【平成8年6月】(甲B44)
   比嘉喜順さんに会って事件を聞くと、
「その通りです。世間の誤解をといて下さい」
と言う。
   「赤松嘉次さんは人間の鑑です。渡嘉敷の住民のために一人で泥をかぶり、一切、弁明することなくこの世を去ったのです。私は本当に気の毒だと思います。家族のためにも本当のことを世間にお知らせください」(6・1段目)
(7)『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』(曽野綾子著)【平成15年9月発行】(甲B4)
    安里喜順の証言が、再びまとめられている。内容的には、『ある神話の背景』(甲B18)と同内容である。
(8) 小括
    安里巡査は、《赤松命令説》の有無を判断するにあたり、「知念朝睦」と並ぶ最重要証人である。安里は、《赤松命令説》を完全に否定する。証言も一切ぶれていない。
同じく両名が重要証人であるとの認識を抱いている曽野綾子は、次のような感想を述べている。
   「その時に私は驚いたのだが、知念元副官と言い、安里元巡査といい、鍵を握る人物が現存していて、少しも面会を拒否していないのに、取材のために会いにきた沖縄側のジャーナリストは1人もなく、私より前に取材にきたのは『週刊朝日』の中西記者だけだという事実だった。ついでに言うと、大江氏も渡嘉敷島にさえ取材に来てはいなかった。当時渡嘉敷島には民宿が一軒しかなかったが、私が当然のように大江氏の名前を出しても宿の人はぽかんとしていた。」(甲B18・2枚目第3段)。
   
6 知念朝睦
赤松隊元副官であり、赤松隊長の側近であった。赤松隊唯一の沖縄県出身者である。当初から《赤松命令説》を否定する証言をしている。本件訴訟に出頭した証人である。(機
(1) 『ある神話の背景』【昭和48年5月発行】(甲B18)
「『(地下壕はございましたか?)ないですよ、ありません。』
知念氏はきっぱりと否定した。
   『この本に出て来るような将校会議というのはありませんか』
   『いやあ、ぜんぜんしていません。只、配備のための将校会議というのはありました。一中隊どこへ行け、二中隊どこへ行けという式のね。全部稜線に配置しておりましたんでね。』
    知念朝睦氏は、あまりにもまちがった記事が多いのと、最近、老眼鏡をかけなければ字が読みにくくなったので、この頃は渡嘉敷島に関することは一切、読まないことにした、と私に笑いながら語った。
    つけ加えれば、知念氏は少くとも昭和四十五年までには沖縄の報道関係者から一切のインタビューを受けたことがないという。それが、赤松氏来島の時に『知念は逃げかくれしている』という一部の噂になって流れたが、
   『逃げかくれはしておりません。しかし何も聞いていないところへ、こちらから話を売り込みに行く気もありませんから、黙っておりました。
    昨年春(昭和四十五年三月)赤松隊長が見えた時に、市役所の職員の山田義時という人から会いたい、という申し出でを受けました。何も知らないので、初めは会おうと思いましたが、その後、その山田氏が、赤松帰れという声明文などを空港で読み上げて、それで名前もわかりましたので、そんな人に会うのは不愉快だと思って断りました。しかしその時が面会を申し込まれた最初でした』」(甲B18p113,114)
「食糧の分配の問題ですが、これは住民が取りやすい豚だとか鶏だとかをとって、取りにくい牛は軍が食べる。これは村長の目の前でそういう協定をしたわけです。ところがそういうことは、全然、戦記にもありませんし、新聞にも出ません。」(甲B18p184)
(2)『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p769〜775
   「西山陣地では電話も通ぜず各隊との連結は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。
    十歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。はじめて自決のことを聞きました。
    この子らは阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火させ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉妹も元気に居ります。
    どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日まえ阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。そこへ、米軍の追撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。
    もう生きられる望みを断たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、十歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。
    それにしても私が見た自決者の遺体は六、七体でした。記録に残る三二九体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。
    赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。
    私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。
    もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました。」(p772〜773)。
(3) 証人調書
  『沖縄県史第10巻』(乙9)はインタビューを受けて記載されたもので、その内容は正しいとはっきり証言している(知念調書p1〜5)。特に《赤松命令説》が虚構であることについては反対尋問もふまえて明確に証言している。
   「(〈乙9の〉中身についてどう思いますか、正しいか間違いかということを聞かれて)正しいです。」(知念調書p2)
   「はい。自決命令はいただいておりません。」(知念調書p5)
   また、『沖縄県史第10巻』(乙9)p772・2行目以下のエピソードを更に具体的に証言している。
   「(何のために陣地に来たというふうに言ってたんですか。)それは理由はわかりませんけども、きょうだい2人ですから、戦隊長の命によりまして、乾麺麭を上げてやりましたら、帰りました。」(知念調書・p2)。
   「(知念さんは、その姉、弟に対して、何か言いましたか。)はい。これは言いました。とにかく絶対に死ぬなと、捕虜になってもいいから生きなさいと、死ぬのは兵隊さんだけだと、こう言っておりましたら帰りました。」(同p2)
   「(乾麺麭というのは、だれからもらったんですか。)戦隊長は、たしか3つだと思いますがくれましたので、それを上げて陣地から帰しました。」(同p3)
   「(姉弟に会って、その後に赤松戦隊長のところに言いに行ったわけですか。)はい。あのときは、もうそういうふうに子供たちが来たんですから、陣地の中へ来たんで隊長に報告いたしました。」(同p3)
   「(その隊長に報告をしたら、乾麺麭を赤松戦隊長が、これを姉弟に渡せということでくれたということですか。)はい、そうです。」(同p3)
   「(ほかにあなた自身がその女の子に対して上げたものはありますか。)たしか私は財布をやったと思います。」(同p3)
   「(なぜあなたは財布を渡したんですか。)これはもう兵隊でございますし、死んだらその財布は何も必要なくなると。そういうことで、おまえら絶対生きなさいよと、生きたらこの金は使えるはずだから、必ずそれを持っていきなさいと言って渡しました。」(同p3)
※ 知念自らが、陣地に来た「きょうだい」に対して、「絶対に死ぬな」と言い、赤松隊長から貰った「乾麺麭」をやり、自らの財布もあげている。「きょうだい」の話は、『沖縄県史第10巻』(乙9)にも記載されている話である。証言も具体的であり、《赤松命令説》の虚構を強く裏付けるものである。
(4) 『沖縄戦ショーダウン』(1〜13)【平成8年6月】(甲B44)
   「知念朝睦さんに電話すると、『赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ』という。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。」(甲B44・3・6段目)
(5) 小括
    赤松大尉の元副官知念朝睦は、本件において最重要証人の一人である。
    知念は、『沖縄県史第10巻』(乙9)に収録された自身の証言を正しいものとして、それを更に具体的に証言している。《赤松命令説》、『鉄の暴風』の虚構性はより明白となっている。

7 金城重明
当時16歳。兄は阿波連の区長もしていた「金城重英」である。「金城武徳」と同級生である。「山城盛時」、「金城重英」と共に、「集団自決」を体験している。本件訴訟に出頭した証人である。(后
(1) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「渡嘉敷島でのいわゆる集団自決について、直接の指揮系統は未だ明確ではなく、赤松大尉は直接には命令を下さなかったという説もあり、したがって、その点は、いまは別個にして、当時の記憶をたどってみたい。米軍が慶良間列島に上陸したのが二十年三月二十六日、翌二十七日に、私たちは阿波連の部落から渡嘉敷へ移動した。そのときはすでに、私たちは軍と行動をともにするという意識が徹底されていて、みな玉砕の覚悟をもっていた。防衛隊から配られた手榴弾を手にして、ひたすら日本軍の命令を待っていた。だいぶんたって、軍からやっと自決命令が下った。ところが、最後まで戦う覚悟のはずの日本軍の陣地からは一発の応射もない。米軍の攻撃は、しだいに私たちに迫ってくる。すでに意を決していた私たちは、手榴弾のセンを抜き爆死を試みた。だが、前日からの雨で湿気を受けていたせいか、ほとんどがじゅうぶん発火せず、手榴弾の犠牲者はほとんどなかったといってよいくらいだ。後から考えれば、この手榴弾の不発のために悲劇はいっそうつのった。こんどは身内同志の殺し合いが始まったのである。私は米軍の爆風に冒され、意識がもうろうとしていたが、明らかに死を実感したことだけは確かである。やがて意識がはっきりしてくると、私の眼前で阿波連の区長が木を一本折って妻や子供をなぐり殺している場面が眼に映ってくるではないか。そのときの驚きようは、とてもことばにならない。その情景を見ていたまわりの人たちも以心伝心で、つぎつぎと家族同志、木やカマを使って殺し合い、自らの頸部をカミソリで切り、あるいはクワで親しい者の頭をたたき割る・・・。   私も、兄といっしょになって夢中で母と妹もなぐり殺した。半ば放心状態だった。島民が肉親までも殺し、また自らも命を絶たなければならなかった理由は3つあると思う。(1)米軍に捕まると惨殺される。(2)皇民として捕虜になることは恥辱である。(3)天皇陛下のために死ぬ、ということであった。」
※ 「直接の指揮系統は未だ明確ではなく、赤松大尉は直接には命令を下さなかったという説もあり、したがって、その点は、いまは別個にして、当時の記憶をたどってみたい。」として、結論を留保した記載をしている。《赤松命令》を直接経験していないことを意味する。《赤松命令説》とは異なる3つの理由を挙げている(前記(1)(2)(3))。
(2) 『ある神話の背景』(甲B18)
   曽野綾子は、金城重明の証言については「正確を期すために」、同人の手記をそのまま掲載している。
   「三月二十八日、自決場へ集結せしめられてから、死の命令が出るまでの数時間は極めて長く重苦しく感ぜられた。」(甲B18p154)
「いよいよ自決命令が出たので、配られた数少ない手榴弾で、身内の者同士が一かたまりになって自決を始めた」(甲B18p155)
「しかしデモーニッシュな死への至上命令が遂に内面を支配した。怪獣によって魔力が充電される様に、死ななければならないと言う意識がいよいよ支配的になって行く。十六歳と言う年齢の少年の敏感さと純粋さが、異常な方向へ向けられてしまったのである。」(甲B18p156)
「しかし渡嘉敷島での最後の生き残りであると信じた私共は、敵の惨殺に会う時がいよいよ決定的に刻一刻と迫ってくるのを重く感じた。それはまさに末期的死の意識なのである。この様な状況で生き延びることはなお恐ろしい絶望でしかなかった。残された道は死のみである事を、以前よりもひしひしと直感した。この様に集団自決が終りに近づくに連れて、死の集団の強い連帯を覚えた。すべてが一つの死の家族集団と化したのである。肉親を越えたより大きな死の家族集団が、渡嘉敷の集団自決場で、瞬間的に形成された。   
この死の連帯感が、私をして他人の死を早める働きへと動かしめた重大な要因だったのだ。」(甲B18p161)
「生きることより恐ろしい状態が来た時には死を願う。私たちの場合は異常の状況ですから、生きることが、生き残ることが恐かった。」(甲B18p161)
※ 《赤松命令》は出て来ない。むしろ、「死の連帯感」を重大な要因としている。
(3) 『「集団自決」を心に刻んで』【1995年6月第1刷・1999年9月第3刷発行】(甲B42)
    著者の金城重明は、何百人という集団自決が起こった原因として、
「『皇軍』との"共生共死"の思想こそが、非戦闘員を死に追い込んだ最大の要因だったのです。」(甲B42p50)
としており、集団自決の最大の要因を、『共生共死』の思想に求め、赤松隊長の命令とはしていない。
    自決の経緯についても記載されているが、次のとおり、金城自身は、自決命令を目撃(直接体験)しておらず、「軍の命令」については、「議論がある」としている。金城重明には《赤松命令説》を語る上での証人適格はないのである。
「三月二八日の朝を迎えました。どんより曇った空が、当日の暗い、悲惨な出来事を予告しているかのようでした。村長の指揮のもと、住民は一か所に終結しました。重大な出来事、すなわち、死が待っているであろう、ということは、だれにも明瞭に予感されていました。」
「私どもは、刻々と迫りくる命令を待ちました。軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)。また、すでに米軍は三百メートル近くまで迫っている、との知らせもあったようです。」(甲B42p52)。
※ 当時の自決に至る金城重明の心理状態も記載されている。この心理状態の記述からは、集団自決の発生が赤松隊長の命令により強いられたものという事実はうかがえない。
「決して、われ先に死に赴く男性は、一人もおりませんでした。愛する者を放置しておくということは、彼らを、最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることを意味したからです。『集団自決』が進行するにつれ、『生き残る』ことへの恐怖心と焦燥感のボルテージが、極度に高まってくるのを強烈に感じました。『生き残ったらどうしよう』と"共死"の定めから取り残されることへの恐怖は頂点に達しました。私どもは死の虜になってしまっていたのです。当時の『教育』の凄まじさに身震いがします。」(甲B42p55)。「もし、軍隊や住民側から"自分たちはまだ生きているぞ"との情報を伝達してくれる者が一人でもいたら、『集団自決』は中途で断念されたに違いありません。しかし、あのような状況では、それを期待する方が無理だ、との反論が返ってくるだろうと思います。」(甲B42p56)
  「また、同じ慶良間の阿嘉島の『集団自決』(三月二六日)の誤報が、渡嘉敷の悲劇の遠因になったことも否定できません」(甲B42p57)
(4) 証人調書
金城重明の証人調書において、自己の体験しない事実・評価は、何ら証言としての価値がない。価値があるのは、それがどんなに悲劇的であろうとも、公的に語った「集団自決の実像」である。
(5) 小括
    金城重明の証言で明らかになったことで重要なことは、大きく分けて二つである。一つは、金城重明は、《赤松命令説》を語る証人としての適格性がないこと、もう一つは、被告らが《赤松命令説》をすり替えて主張する《3月20日手榴弾交付説》において手榴弾を受け取るべきはずの人物が誰も手榴弾を受け取っていないことを新たに証言したことである。すなわち、《赤松命令説》、《3月20日手榴弾交付説》は何ら根拠がない虚構であることが明らかとなったのである。
 
8 山城盛治
渡嘉敷出身、当時14歳。「集団自決」の事実を正直に証言したものである。山城は、「金城重明」、その兄「金城重英」と共に「集団自決」の体験者である。(后
(1)『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p399〜406
「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」
(2) 小括
     上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重英」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、《赤松命令説》は、この多様な態様を全て説明できるものではない。このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

9 小嶺園枝
渡嘉敷出身。当時30歳である。当時4人の子供の母親である。「集団自決」の体験者である。(検
(1) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p372〜381
「本部のそばの川なんか、水が溢れて、赤土がドドーッと流れて、そこを渡って、今、玉砕場といわれているところに行った。
    私たちは死ぬつもりはないから、最後の最後まで立っていたけど、他の人たちは、心中して、家族みんな死ぬのもいるし、傷負って生きている人もいるし、むごいものでした。
    うちは、子ども四人に夫婦の六人家族、一番上の兄夫婦は子どもがなくて、また、姉が南洋から子ども三人つれて引き揚げて帰っていたから、これだけ一か所にまとまって座っていたら、義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた。」(甲B39p374)
   「始まったのは、日がくれる前ですよ、スバヒラ(周り)で手榴弾をボンボンする人、太刀(銃剣)やヤマナジ(ナタ)で家族殺すのもいるし、負傷した人たちは、アビャーアビャーして、“タシキティキリー、クルチキリー”(助けてくれー、殺してくれー)するものだから、ウワラヌフルモーから本部の兵隊に追っ払われて、今の第二玉砕場に兵隊に連れて行かれたのですよ。
    その前だったかね、村長の米田さんが、本部から機関銃かりて生き残った人たちをやろうとして兵隊にとめられたのは、親も子も血ダラダラして、本部に行ったら、隊長にはおこられるし、もう一人の兵隊は、剣ふりまわして、怖くなってカーシーガーラに逃げていく人もいるし」(甲B39p375)
(2) 小括
     4人の子供を持つ母親の体験証言である。《赤松命令説》を何ら語っていない。自決後、「隊長にはおこられる」という証言をしている。「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた。」(甲B39p374)として、防衛隊が手榴弾を赤松隊長の目をぬすんで入手していたことを明らかにする。《手榴弾交付=「命令」説》の根拠は、武器は厳重に管理されている筈であるから赤松隊長が同意を与えたに違いないとするものであるが、防衛隊の持ち出しが可能な戦況であったのであり、前提が破綻している。
  
10 小嶺幸信
渡嘉敷出身、当時14歳である。(后
(1) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p385〜389
   「玉砕場」に行った経緯が証言されている。
   「アメリカーが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(二六日)防衛隊が『敵が上陸して危険だから移動しろ』と、いう事で、一応南側の山に避難した。
    シジミチ山で一晩過ごしました。そこから見える慶良間海峡には、軍艦がいっぱい並んでいるのが見えて、もうそこら辺りにも(敵は)入り込んでいると思って、また、部落に降りて北山に行った。
    その日は、だいぶ雨が降って、母の両親は、もう年で山道は歩くこともできない状態で、じいさんばあさんに『あんたたちは、若いから、出来るだけ命を永らえるようにしなさいよ』と、いわれ、別れました。
    その夜、北山の、今、玉砕場と呼ばれるている処についた。
    僕らは、夜明前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。誰が音頭をとったか知らないが、"天皇陛下バンザイ"と三唱やった事を覚えている」(甲B39p386)
(2) 冊子『わたしたちの渡嘉敷島《六年生の社会科郷土資料》』(渡嘉敷村教育委員会編)【1989年3月31日初版・2004年3月31日改訂版発行】(甲B48)
    p39に上記(1)と同様の記載がある。
(3) 小括
    「僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた」と証言している。《集合「命令」説》の破綻が判る証言である。

11 連下政市
赤松大尉の元部下である。当時第二中隊の第二戦闘群の郡長、少尉。《赤松命令説》を否定する証言である。(機
(1) 『週刊朝日「集団自決の島−沖縄・慶良間」』【1970(昭和45)年8月発行】(甲B20)
   「真っ暗な夜、10時過ぎにもなっていたでしょうかぁ。3、40人もの住民がワンワン泣きながらやってきた。『もうカネもいらない。殺してくれ。兵隊さんと一緒に死にたい』と叫びながら、手にもった貯金通帳や国債やかつおぶしを投げつけるのです。その泣声を耳にして、米軍陣地から機関銃を撃ちこまれ、一人の兵士が戦死した。『あんた方がきては撃たれるし部隊も迷惑するから動いてくれ』といっても泣くばかりで、説得するのに2、30分もかかったのを覚えている。その時点では自決のことは知りませんでした」(甲B20p21)

連下元小隊長に宛てられた島民の手紙
  「(集団自決後、敵の機銃陣地に切り込みにいく途中)、連下少尉殿、あなたの刀を貸してくれませんか・・・、子供等を処分整理してこないとうしろがみが引かれて、どうしても貴殿方と一緒に行動することは出来ません、といったら貴殿がおこられてバカをいうもんじゃない、人間はどんな目に逢おうと、或いはちりぢりばらばらに別れても生きるものは生かすことだ、人間は死ぬことはやすいが、死んでからは生かされるものではない、例え戦争といえどもそんなバカな考えをもってはいけないよとさとされたのでほんとに思いとどまったのでした」
この手紙を基に、中西記者は「必ずしも赤松隊と島の人々とが真向から対立していたとはいえないようだ。」とコメントしている(甲B20p21)。
(2) 『ある神話の背景』(甲B18)
    連下少尉は、住民が陣地内になだれ込んだ時点の事実を目撃している。
   「二十七日の夜、雨の中で(ということは闇夜であった)村の人たちが、興奮してやって来て、彼の目の前で貯金通帳やかつおぶしを『ほかして』ここへおいてくれ、とわめいていたのを目撃していた。
    しかし、そこはまだ、穴一つ満足にない陣地であった。いや、陣地の予定地だったという方が正しい。いくら予定地であろうと、軍陣地内に民間人を入れるということはできない。
    連下少尉は、当然これを断った。」(甲B18p127,128)。

    連下少尉は、「集団自決」の「場所」についても証言している。赤松隊長の「ほんの数人」、『鉄の暴風』に書かれる「329人もの屍がるいるい」という状況を見たことがないというのを受けての証言である。
   「私は一人見ました。一週間後に谷川の傍にいたんです。死体かと思ったら、生きていました。『兵隊さん』って、声をかけられました。こめかみのところに血痕が附着していましたが、一人でした。」(甲B18p131)、
「あちこちで自決されたのと違いますか」
という連下少尉の発言を受けて、赤松大尉は、「三百人以上もの方が固まって亡くなった光景というのが、どうしても実感としてわかない」と答えている(甲B18p132)。
(3) 小括
住民の手紙の文面から、集団自決後に、連下は、子供達を殺すと言っている住民に対し「バカなこというな」と言って止めている。「自決命令」が出ていたのであれば考えられない行動である。 

12 富野稔
当時20歳、赤松隊長の部下、当時第二中隊長。元少尉。(機
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
富野少尉は、自決の場所、自決当時の陣地になだれこんで来た住民を目撃している。
「(自決した方をみたか)滝壺の傍でなら、二十名ばかり見ました。」
   「(非戦闘員の村民がいる場所として適当か)上陸地点は、大体、敵の上陸でき得るところが決まっています。つまり南の方から上って来る可能性がこの場合、強い。その場合、軍が南向きに布陣したら、その後北側に、住民を置くのは一応常道だと思います。」(甲B18p134)
   「(自決の前夜、豪雨のときしていたこと)穴掘りです。道具がないから、ゴボウ剣で掘っていました。前にも申しました通り二中隊の連れていた兵は約六十名で軽機関銃一丁だけですが、これではそう長い間、保たないな、と思っていました。」(甲B18p134,135)
「住民の方が流れ込んできたのは(28日の)14時頃です。二中隊正面に、泣き叫びながら押し寄せました。アビ叫喚というのでしょうか。確実に弾着を連れながら、近寄って来ました。つまり、敵の弾を引きつれるようにして来たんです。《兵隊さん、殺して下さい》口々に言いながら陣地へ入って来るので、どうしようもありませんでした。まさに生き地獄でした」(甲B18p135)

   富野元少尉は、「当時の風潮」についても証言している。
「私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったと思います。今の考えの風潮にはないかもしれませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだということがあるでしょうか。
    むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」(甲B18p167)
(2) 小括 
部隊の当日の状況を証言している。当時、《赤松命令説》が出せる戦況にないことが判る。「心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持」は、先述の連下少尉に宛てられた住民からの手紙にも、同様のことが記載されている。

13 太田正一
元赤松隊候補生。《赤松命令説》を否定する。(機
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
「もし、本当に玉砕命令を出していたのなら、生き残って再び集った人をそのまま見逃しはしないでしょうね。命令は命令ですから、いったん出した命令は遂行しなければならないし、また、そうできる状態にあったと思うんです。」(甲B18p141,142)
(2) 小括
    「軍隊の命令」の性質について語っている。《赤松命令説》に従って命令が遂行された事実は見当たらない。むしろ、陣地内になだれこんだ住民を追い返したり、衛生兵を派遣して治療にあたらせる等《赤松命令説》と相反する事実が認められる。
 
14 若山正三
赤松隊長の元部下、軍曹。衛生兵として「集団自決」後の住民の治療にあたっている。(機
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
     赤松隊長の意向で村民の治療をしたことを語っている。これも《赤松命令説》が虚構であることを示す重要な事実である。
「村民の治療をなさったのは、若山さんのご一存ですか?」
「いや、軍医や隊長の意向でもありましたんでね。」
「若山さんが、こっそり行っておあげになったんじゃありませんか?」
「いやそんなことはないです。明らかに隊長と軍医に言われたからです」
「それを証言なさいますか?」
「それはまちがいないことです」(甲B18p121,122)
(2) 小括
     太田元候補生が言うように、もし《赤松命令説》が事実であるなら、村民の治療をするわけがない。この証言も《赤松命令説》が虚構であることを示す事実である。

15 皆本義博
    元赤松隊、赤松隊長の部下である。原告側の証人となった。(機
    法廷で、当時の戦況、赤松隊長とのやり取りを具体的に証言し、《赤松命令説》を完全に否定した。

16 照屋昇雄
戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わる。《赤松命令説》を完全否定する証言をしている。
(1)『産経新聞記事』(豊吉広英)【平成18年8月27日朝刊】(甲B35)
    琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討し、その方法として「軍による命令」という便法を案出し、玉井喜八村長が赤松元隊長に告げたところ、「隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする」と言って赤松元隊長が重い十字架を背負ったことを証言した(甲B35・1枚目、3枚目)。
「平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、『軍命令』とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。同村の担当者は、『命令』があったかどうかは、い
author:南木隆治, category:-, 22:05
comments(0), trackbacks(0), pookmark
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 22:05
-, -, pookmark
Comment









Trackback
url: http://osj.jugem.jp/trackback/28