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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の10
(3)宮村幸延の『証言』書面
   ア 証言内容と取得の経緯
 次いで、《梅澤命令説》が真実でないことを明らかにすることとなったのが、昭和62年3月の宮村幸延の『証言』書面(甲B8)であった。
 その内容や取得経過は、原告準備書面(2)p10〜、原告準備書面(4)p6〜、原告準備書面(5)p12〜、原告準備書面(7)p28〜に詳論している(書証としては、甲B1 p5、甲B33 p1〜)。
   イ 証拠価値に対する異議について
この宮村幸延の『証言』書面については、被告らは、原告梅澤が宮村幸延を泥酔状態に陥れて書かせたか押印させたかしたもので内容に真実性はない旨主張し、それを支える証拠を提出している(乙17宮村幸延のメモ、乙18『仕組まれた「詫び状」』、宮城晴美調書 p27〜)。
 しかし、かかる主張は全く失当である。
 被告ら主張の不合理な点は、指摘すると多岐にわたるが、まず、この『証言』を報道した昭和62年の神戸新聞報道(甲B11)に対し、宮村幸延はじめ関係者が一切の異議申立を神戸新聞に行っていないこと(甲B102)が指摘できる。
 また、昭和63年の本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)でも、宮村幸延の「酒に酔っているとき、頼まれて書いた」との弁解は載せているものの、『証言』内容が真実であることについて、宮村幸延は否定したともされておらず、本田も何ら疑義を差し挟んではいない。
 原告梅澤が先に下書き(乙18 p117、甲B85)をして、それを参考にする形で宮村幸延が書いたというのは事実のようであるが、この下書きと、完成した『証言』を比較して明らかになるのは、むしろ宮村幸延の任意性、自発性である。
 すなわち、
 _悉颪では「宮村盛秀の命令」となっているのが、完成した『証言』では「当時兵事主任(兼)宮里盛秀」とされ、肩書きが付され、当時の正しい名字に訂正されている。
下書きでは「遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です」とされているのが、完成した『証言』では「之は弟の宮村幸延が遺族補償のため、やむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります」と直されている。
 宮村幸延の肩書きについて、下書きでは「元座間味村役場事務局長」とされているのが、完成した『証言』では「右当時援護係」とされている。
などの相違が、下書きと『証言』とにはあり、宮村幸延が、本人なりに誠実に、正確を期して丁寧に内容を表現したことが明白である(梅澤調書 p15〜)。原告梅澤に言われるままに書いたのでも、そのときに泥酔して判断能力が劣っていたのでもなかったのである。
 (4)本田靖春『第一戦隊長の証言』と宮村盛永『自叙伝』
 昭和62年の神戸新聞報道(甲B11)に触発された本田靖春が、丹念な取材を経て発表したのが、昭和63年の『第一戦隊長の証言』(甲B26)であり、これが、《梅澤命令説》が虚偽であることをさらに広く世に明らかにすることとなった。
この『第一戦隊長の証言』の中では、宮村盛永『自叙伝』が一部引用されていたが(甲B11 p293、原告準備書面(3)p3〜)、この訴訟において被告から提出された『自叙伝』(乙28。昭和31年起稿)には、原告梅澤による自決命令は明記されておらず、逆に、宮村盛永(当時の姓は宮里)が、一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程がなまなましく記載されているのである(原告準備書面(5)p15〜、原告準備書面(7)p44〜)。
「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」(以上No.69部分)
「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味の山は殆ど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然とするばかりであった。丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。」と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機関銃は頭をかすめてピュンピュン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさい』との事であったので、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったか政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」(以上No.70、71部分)
この文章から明らかなように、まず一族で「玉砕」するのがましではないかと言い出したのは盛永であり、相談した家族は皆賛成であったという。「玉砕」が軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっきり表れている。そして、25日の午後9時頃、直が一人でやって来て『村の近い処で軍と共に全員玉砕しようではないか」と持ちかけことも記載されている。そのときも「皆同意」したのである。
また、結局盛永自身は、家族とはぐれるなどの経過の中で、自決をせず生き残ったのであるが、これも自決についての軍命令ないし隊長命令がなかったことのあらわれといえよう。宮村盛永は元座間味村長であり(甲26p293)、当時の助役の父なのであるから、《梅澤命令説》が真実だとすれば、他の多数の村民らとともに最も忠実に命令に従ったはずではなかろうか。
 (5)『座間味村史』での総括
 1989(平成元)年発行の『座間味村史』(上巻乙49、下巻乙50)は、座間味村史編集委員会が編集し、座間味村役場が発行した公式の村史であるが、上巻の村史の記述、下巻の住民の戦争体験記のいずれにも、《梅澤命令説》は一切書かれなかった。
    逆に、下巻に収録されている宮城初枝の手記においては、昭和20年3月25日の夜に宮里盛秀助役や初枝ら村幹部5人が原告梅澤を訪ねたが、村幹部らが住民の自決のための武器提供を求めたのに対し原告梅澤が「お帰り下さい」と言ってそれを断ったことが書かれている(乙50p15)。
むしろ『座間味村史』において明らかにされているのは、米軍の容赦ない攻撃に住民が錯乱状態に陥った中で、米軍に対する恐怖と、「死ぬならみんなで」との思いから、集団自決があちこちの壕で時刻もばらばらに家族単位で実行されていったことである(乙49 p349〜)。
「夜がふけても、艦砲射撃はいっこうに止む様子がなく、住民たちの不安は一層増すばかりであった。そんな状況のなかで、『伝令』とよばれる役場職員が、『全員忠魂碑前に集まるように』と、座間味村落の各壕に呼びかけてきた。−中略−住民たちは『もはやここまでの命』と即断せざるを得なかった。」)
「『いつわが身に、あるいはわが子の頭上に弾が落ちてくるかわからない。自分たちだけ死ぬのは困ると思った』と数人の女性たちは証言し、考えられることは住民全員で『自決』することだったという。
 これまで一度とて、住民の間で『玉砕』やら『集団自決』ということについての話し合いがなされたことはない。つまり、死への『打ち合わせ』が全くできていない状態で、しかも家族単位で避難し部落民がバラバラであったにもかかわらず、この時は誰もが同じことを考えていたのである。」(p354、355)
「二六日昼近く、米軍は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきていた。はじめて住民の目に映った米軍は、同じ人間でも日本人とは違う目、肌の色をし、鼻が高く、背も“普通”ではなかった。まさに『鬼畜米英』そのものだったのである。住民たちは、それまで単なる噂として受け止め、さほど気にもしなかった『アメリカーに捕まったら、婦女子はさんざんもてあそばれたうえに刺殺され、男は道に並べられてローラーの下敷きにされる』という話を、そして『生キテ虜囚ノ辱メを受ケズ』の戦陣訓までをも、現実のものとして捉えないわけにはいかなかった。」(p360、361)
 特に自決の直接の動機として強調されているのが、「米軍への恐怖」である。下巻(乙50)の冒頭では、下記のように総括されている。
「共通していえることは、『鬼畜米英』の“アメリカー”に捕まることを恐れたということだ。」(p3)
「たしかに、『玉砕』のその瞬間は、国家も天皇陛下もなく、愛する自分の肉親を、“アメリカー”の残酷な手に渡すまいと手をかけたのがほとんどであった。」(p4)
 一方で、「日本国家は何年もかけ、ジワリジワリと、住民への『玉砕』を強要していたことを見逃すわけにはいかないだろう」(p4)というような記述もあるが、これは、軍命令ないし隊長命令がなかったことの証左である。「日本国家によるジワリジワリとなされた強要」の有無や、国ないし軍の(広い意味での)責任の存否については、解釈問題として議論のありうるところであるが、本件訴訟で焦点となっている《梅澤命令説》の存否とは、全く別次元のテーマであり、問題がすり替えられてはならない。
    なお、この『座間味村史』における各住民の証言(乙50)の重要部分については、原告最終準備書面その2−住民証言篇−でまとめている。下巻の「村民の戦争体験記」の多くは、宮城晴美が聞き取り、執筆等を行ったもので(乙63p3)、正確緻密なものと評価できる。
 (6)『母の遺したもの』の衝撃
   ア  沖縄タイムス記事「母の遺言」(甲B92)
 座間味村での集団自決と真実ではない《梅澤命令説》が流布され定着した経緯について、全容をほぼ明らかにしたのが、平成12年12月発行の宮城晴美著『母の遺したもの』(甲B5)であった。
 ただ、これに先立つ平成7年6月に、宮城晴美は、沖縄タイムスに「母の遺言」という記事を書き(甲B92)、この中で、後に『母の遺したもの』で発表する内容の概要を述べている。
 まず、「上」(甲B92の1)では、宮城初枝が、『悲劇の座間味島』に記載した《梅澤命令説》証言が独り歩きしたことにより苦悩し、その証言により梅澤個人を戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念を有しており、宮城晴美に手記の書き直しを託したとの経緯が述べられている。
 そして、「中」(甲B92の2)には、宮城晴美は次のように記し、宮城初枝が援護法の補償を島民が受けるために《梅澤命令説》を公的に証言せざるを得なかった事情を明らかにしている。
「その『隊長命令』の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。
 母はいったん、証言できないと断ったようだが、『人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか』という長老の怒りに屈してしまったようである。
 それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は『集団自決』の個所にくると、いつも背中に『援護法』の“目”を意識せざるを得なかった。」
 この部分は、おそらくは、あまりに赤裸々に実情を明らかにし過ぎる叙述であるとの考慮からであろう、『母の遺したもの』では、削除されている(甲B5 p250〜参照)。
 さらに、「下」(甲B92の3)では、宮城晴美は、「島の有力者たちがやってきたものの、いつ上陸してくるかも知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に『玉砕』の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していった」、「その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って『忠魂碑前に集まるよう』呼びかけたのである」、「伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に『自決』とか『玉砕』という言葉を聞いていない」などと宮城晴美は母の体験や住民から聞き取り調査した結果を要約して述べ、原告梅澤が住民に「玉砕」の指示を出していないことを明らかにしている。
   イ 『母の遺したもの』の発表
 平成12年12月、宮城晴美は『母の遺したもの』(甲B5)を発表し、県内でも話題になった。
 この出版を報道する沖縄タイムスの記事(甲B93の2)においては、この書籍の内容紹介として「『集団自決を命じたのは座間味村役所の助役だった』という事実−中略−を収録」と書かれている。
 当時、《梅澤命令説》、《軍命令説》が真実ではなく、《宮里盛秀助役命令説》が真実であることがこの書籍により明らかにされたと、一般的にとらえられたのである。
 そして、発表の約1年後、『母の遺したもの』は第22回沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。甲B93の1は、その受賞を報道する沖縄タイムスの記事であるが、この書籍の内容紹介として「実は軍命はなかった、と母は著者に明かす」とまとめられている(この書籍の出版当時から一般的に「隊長命令」と「軍命令」とは異なるなどとは特に意識されてはいなかった)。沖縄タイムス社ですら、『母の遺したもの』には集団自決に際して「軍命」はなかったとの真実が確かな根拠にもと語られているものと認識し、その真摯な叙述ぶりとも合わせて高く評価して賞を授与したのであった。
 改めて指摘するが、宮里盛秀助役が最終的に集団自決を住民に命じたことが『母の遺したもの』には明瞭に語られている。
「追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。」(p216)
「結局、住民を敵の『魔の手』から守るために、盛秀は自分や妻子の命をもかけて、『玉砕』を命令し、決行した。」(p219)
 《梅澤命令説》が誤りであったことは、『母の遺したもの』の発行とそれが沖縄タイムス出版文化賞を受賞したことによって、学問的にも社会的にも完全に確立し、定着したといえるのである。
author:南木隆治, category:-, 02:25
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