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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の1 『目次』
平成17年(ワ)第7696 出版停止等請求事件
原 告 梅 澤  裕 外1名
被 告 大江健三郎 外1名
  http://osj.jugem.jp/?eid
 原告最終準備書面(その1)
            
                          平成19年12月21日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中

                原告ら訴訟代理人

                    弁護士  松  本  藤  一

                    弁護士  徳  永  信  一

                    弁護士  稲  田  朋  美

                    弁護士  高  池  勝  彦

                    弁護士  岩  原  義  則

                    弁護士  大  村  昌  史

                    弁護士  木  地  晴  子

                    弁護士  本  多  重  夫

              弁護士 中  村  正  彦

   弁護士 青  山  定  聖  弁護士  荒 木 田    修

   弁護士 猪  野     愈   弁護士  氏  原  瑞  穂

   弁護士 内  田     智   弁護士  小  沢  俊  夫

   弁護士 勝  俣  幸  洋   弁護士  神  崎  敬  直

   弁護士 木  村  眞  敏   弁護士  田  中  平  八

   弁護士 田  中  禎  人   弁護士  田  辺  善  彦

   弁護士 玉  置     健 弁護士  中  條  嘉  則

   弁護士 中  島  繁  樹 弁護士  中  島  修  三

   弁護士 二  村  豈  則 弁護士  馬  場  正  裕

   弁護士 羽  原  真  二 弁護士  浜  田  正  夫

   弁護士 原     洋  司 弁護士  藤  野  義  昭

   弁護士 三ツ角   直  正 弁護士  牧  野  芳  樹

   弁護士 森     統  一

− 目 次 −

第1 家永三郎著『太平洋戦争』による不法行為について ‥‥‥‥‥ 5
  http://osj.jugem.jp/?eid=2 
 
 1 本件書籍一『太平洋戦争』と問題の所在 ‥‥‥‥‥‥ 5 
 2 問題記述の名誉毀損性 ‥‥‥‥ 5  
3 原告梅澤の精神的苦痛等の損害 ‥‥‥‥‥‥ 6
 4 摘示事実の真実性と相当性について ‥‥‥‥‥‥ 8 
 5 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 9
第2 大江健三郎著『沖縄ノート』による不法行為について ‥‥‥‥‥‥ 9
  http://osj.jugem.jp/?eid=3 
 1 本件書籍三『沖縄ノート』と問題の所在 ‥‥‥‥ 9
2 『沖縄ノート』による原告梅澤に対する名誉毀損について  ‥‥‥‥‥‥ 13 
 3 『沖縄ノート』による原告赤松に対する人格権侵害について ‥‥‥‥ 17
 4 被告大江の供述について ‥‥‥‥‥‥ 26
第3 座間味島における隊長命令の不在 ‥‥‥‥‥‥ 29
  http://osj.jugem.jp/?eid=8

1 梅澤命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 29
 2 梅澤命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 30
 3 《梅澤命令説》の破綻と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 34
 4 宮城晴美証言について ‥‥‥‥‥‥ 45
 5 新証拠なるものについて ‥‥‥‥‥‥ 53
 6 座間味島住民の証言について ‥‥‥‥‥‥ 62
 7 梅澤部隊の行為の総体 ‥‥‥‥‥‥ 64
 8 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 67
第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在 ‥‥‥‥‥‥ 68
  http://osj.jugem.jp/?eid=17 
 
 1 赤松命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 68
 2 赤松命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 68 
 3 赤松隊長の反論 ‥‥‥‥‥‥ 70
 4 赤松命令説の破綻 ‥‥‥‥‥‥ 71
 5 赤松命令説の削除と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 73
 6 太田良博の反論の顛末 ‥‥‥‥‥‥ 76 
 7 手榴弾交付=自決命令説について ‥‥‥‥‥‥ 77
8 隊長命令不在説の定着 ‥‥‥‥‥‥ 84
 9 金城重明の証言にみる虚偽と責任転嫁 ‥‥‥‥‥‥ 95
 10 知念証言について ‥‥‥‥‥‥ 100
 11 皆本証言について ‥‥‥‥‥‥ 103
 12 総括 ‥‥‥‥‥‥ 104 
第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」 ‥‥‥‥‥‥ 105
  http://osj.jugem.jp/?eid=24
 
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 105
 2 『鉄の暴風』の出版経過戸内容の杜撰さ ‥‥‥‥‥‥ 106 
 3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾 ‥‥‥‥‥‥ 108  
 4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実 ‥‥‥‥‥‥ 109
 5 林博史報告記事の恣意性 ‥‥‥‥‥‥ 111 
 6 援護法適用に関する記事の欺瞞 ‥‥‥‥‥‥ 113 
 7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事 ‥‥‥‥‥‥ 113 
 8 結論 ‥‥‥‥‥‥ 116
第6 集団自決の実相 ‥‥‥‥‥‥ 116
  http://osj.jugem.jp/?eid=25 
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 116
 2 隊長命令説、軍命令説の根本的疑問 ‥‥‥‥‥‥ 117
 3 米軍に対する恐怖 ‥‥‥‥‥‥ 119
 4 家族愛 ‥‥‥‥‥‥ 123 
 5 パニック状態の群衆心理、同調圧力 ‥‥‥‥‥‥ 126
 6 軍の命令は無関係との住民証言等 ‥‥‥‥‥‥ 129
 7 「心中」としての集団自決 ‥‥‥‥‥‥ 130
8 捕捉とまとめ ‥‥‥‥‥‥ 132 


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面(その2)
http://osj.jugem.jp/?eid=26

− 目 次 −
序論 本書面の目的と概要
http://osj.jugem.jp/?eid=27
第1 渡嘉敷島の巻
http://osj.jugem.jp/?eid=28

1 金城武徳 7
2 大城良平 11
3 富山(新城)真順 14
4 古波蔵(米田)惟好 16
5 比嘉(安里)喜順 20
6 知念朝睦 31
7 金城重明 35
8 山城盛治 39
9 小嶺園枝 41
10 小嶺幸信 42
11 連下政市 43
12 富野稔 45
13 太田正一 47
14 若山正三 47
15 皆本義博 48
16 照屋昇雄 48
17 小嶺源次 49
18 徳平秀雄 50
19 金城つる子 52
20 比嘉松栄 54
21 伊礼(古波蔵)蓉子 54
22 安座間豊子・ウシ 56
23 グレン・シアレス 57
24 小嶺栄 58
25 東恩納政吉 58
26 吉川勇助 58
27 金城ナヘ 60
28 金城徳三 61
29 大城昌子 62
30 総括 63

第2 座間味島の巻
http://osj.jugem.jp/?eid=29
1 上洲幸子 63
2 宮里峯子 64
3 宮村文子(旧姓 宮里) 65
4 宮平(宮村、宮里)春子 70
5 中村尚宏 78
6 宮里育江(旧・宮平菊江) 79
7 宮城初枝 81
8 宮里美恵子 97
9 宮平(宮里)米子 100
11 松本光子 102
11 宮里トメ 103
12 宮村盛栄 109
13 宮村幸延 112
14 石川重徳 113
15 関根清 114
16 宮平つる子 114
17 宮城恒彦 114
18 中村春子(渡慶次ハル子) 116
19 田中登 118
20 宮里正太郎 118
21 当間正夫 118
22 「A家の隆三」 119
23 伊是名毅 121
24 総括 121
author:南木隆治, category:-, 01:06
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の2 『第1 家永三郎著『太平洋戦争』による不法行為について』
第1 家永三郎著『太平洋戦争』による不法行為について
 1 本件書籍一『太平洋戦争』について    
   被告岩波書店発行の家永三郎著『太平洋戦争』(甲A1)は、1968年(昭和43年)に発行された初版本(甲B7)を訂正して1986年(昭和61年)に発行された第2版が、2000年(平成14年)に岩波現代文庫に収載されたものであり、第二版の序に歴史家である著者自らが記しているように「一五年戦争の全体像を提示するのを目的」(甲A1p)とする一般向けの歴史書として著述されたものである。
その300頁には、「座間味島の梅澤隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。」との記述があり、原告梅澤が住民に対して自決を命じたとの事実摘示がなされており、その事実摘示による名誉毀損の不法行為の成否が、本件書籍一『太平洋戦争』にかかる争点である。     
   なお、初版本(甲B7)にあった「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ」との《赤松命令説》の記述 は、1985年(昭和60年)に「今日の学界の到達水準からすれば不適当または不十分と思われる部分が生じていること」(甲A1p堯砲ら改訂された第二版において削除されている。    
 2 問題記述の名誉毀損性について   
岩波現代文庫所収の本件書籍一の『太平洋戦争』の前記記述は、原告梅澤から座間味島の住民に対して「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」との命令が出され、「生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った」という事実を摘示するものであり、この点争いはない。 
それらの摘示事実は、不特定多数の読者に対し、座間味島の守備隊長だった原告梅澤が、部隊の食糧を確保するため平然と住民の生命を犠牲にした冷酷な鬼のような人物であるという印象を与え、原告梅澤個人の人格を非難し、その社会的評価としての名誉を毀損し、もってその名誉権と名誉感情を侵害するものであることは明かである。    
 3 原告梅澤の精神的苦痛        
  ⑴ はじめに 
『太平洋戦争』に記載された《梅澤命令説》の記述は、同じく《梅澤命令説》を記載した『鉄の暴風』や『沖縄ノート』等の記述と相まって、事実として広く流布し、原告梅澤に対し、部隊が生き延びるために平然と住民を犠牲にした鬼のように冷酷で無慈悲な殺人者としての烙印を押し、その名誉を長年にわたり著しく毀損し、原告梅澤に耐え難い精神的苦痛を与え続けてきた。   
    その苦痛が如何に深く、周囲への影響が甚大なものであったかは、次の内容から十分に看取出来るものである。 
  ⑵ 謝罪等要求書(甲B27)
     原告梅澤は沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日付の手紙で『鉄の暴風』等の訂正と謝罪文掲載の要求を行っている(甲B27)。
    その中で同人は、その積年の思いを次のように吐露し、切々と訴えている。
「私及び家族は多年此の屈辱の為その受けた精神的その他の 被害は極めて甚大であります。」(2枚目1〜2行目)
「永年に亘り此の問題につき苦悩して参り家族共々大変な精神的打撃受け又職務上種々支障を生じ口惜しき極みであります。」
(2枚目最終行〜3枚目1行目)
「私は大悪人として今や小学校の教科書に載ってるそうですね。そうではなかった。私は死んではいけない、共に持久してがんばろうと云った、しかし彼等は淋しく死んで行った。」(4枚目4〜6行目)
       原告梅澤はもとより、その家族までもが長年にわたり屈辱を受け、甚大な精神的苦痛を受けたことが明らかである。
尚、当該謝罪等要求書は、直接には『鉄の暴風』を発行した沖縄タイムス社に対するものであるが、同じく《梅澤命令説 》を記述した『太平洋戦争』を発行した被告岩波書店に対してもそのまま妥当するものである。むしろ、それが被告岩波書店から文庫本として著名な歴史家の著述として出版され、多数の読者に《梅澤命令説》を事実と思わせてきたことを考えれば、その被害は『鉄の暴風』によるものよりも遥かに甚大かつ深刻である。
   ⑶ 平成17年12月26日付陳述書(甲B1)
     原告梅澤は当該陳述書の中でも、その苦痛の深さを次の通り述べている。
         「愕然たる思いに我を失いました。一体どうして、このような嘘が世間に報じられるのかと思いました。たちまち我が家は。どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりました。実際に勤めていた職場に居づらくて仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれました。妻や2人の息子にも、世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。」(甲B1p4「4」)
      「凡そ言葉で語り尽くせない暗澹たる日々。『何故』、『どうして』
と只々終りのない自問自答を繰り返す自分自身…」(甲B1p4「6」)
⑷ 平成18年8月26日付陳述書(甲B33)
  更に原告梅澤は、本件訴訟提起後も出版が続けられ、しかも訴訟において縷々歪曲された事実が主張され続けている状況について、次のようにそのやるせない気持ちを吐露している。
   「裁判所に私の陳述書(甲B1)をお出しした後、被告らから色々な
主張や反論が為されております。
しかしながら、それらの内容は、真実が捻じ曲げられたり、ありも
しない事実が作り出されたりしており、私自身とても耐え難く、毎日
例えようのないやるせなさを味わっております。」
(甲B33p1冒頭)
「戦後60年が過ぎ、元号も平成に変わりました。世の中も信じられな
いくらい豊かになりました。その中で、一体、私はいつまで苦しみ続
けなければならないのでしょうか。一体、いつになると私に終戦が訪
れるのでしょうか。」(甲B33p10「4」)
    以上の通り、『太平洋戦争』の出版によって、原告梅澤は深刻な精神的苦痛を被っているのであり、その出版が継続されている現在も尚、その名誉権ないし人格権は甚だしい侵害を受け続けているのである。  
 4 摘示事実の真実性と相当性について  
  ⑴ 抗弁について      
    事実を摘示しての名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、摘示された事実がその重要な部分について真実であることの証明があったときには、上記行為には違法性がなく、仮に上記証明がないときにも、行為者において上記事実の重要な部分を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定される(最高裁昭和41年6月23日判決・民集20巻5号1118頁、最高裁昭和58年10月20日判決・裁判集民事140号177頁参照)。        
    『太平洋戦争』の前記記述にかかる名誉毀損の不法行為の成否は、それが摘示している事実の重要な部分、すなわち、原告梅澤が「老人・こどもは忠魂碑の前で自決せよ」との命令を出したという事実について、それが真実であることの証明(以下「真実性」という)があるか、真実と信ずるについて相当の理由(以下「相当性」という)があるかにかかっている。  
  ⑵ 真実性について    
    原告梅澤が「老人・こどもは忠魂碑の前で自決せよ」という命令を出したという事実はなく、それを内容とする《梅澤命令説》が根拠のない風聞にすぎないものであり、本件訴訟においも被告らが《梅澤命令説》の真実性についての証明を全くなしえていないことは、本書の第3(座間味島における隊長命令の不在)において詳述するところである。  
  ⑶ 相当性について  
    岩波現代文庫『太平洋戦争』は平成14年7月16日に初刷が発行され、第2刷が平成15年2月14日に発行されているが、初刷発行当時、《梅澤命令説》を覆した宮城晴美著『母が遺したもの』(甲B5)が平成12年12月に発行され、平成13年には第22回沖縄タイムス出版文化賞を受賞するなどして、その座間味島の集団自決は原告梅澤の命令によるものではないというその内容は、広く知られるようになっていた。因みに、受賞を報道する沖縄タイムス紙の見出しには「偽りの証言の真意明かす」とあり(甲B93の1)、「集団自決を命じたのは座間味村役所の助役だった」ことが事実として記載されている(甲B93の2)。   
被告岩波書店は、平成14年7月6日に『太平洋戦争』を岩波現代文庫として出版するにあたり、そこに記述されていた《梅澤命令説》の記述を真実と信ずるについて相当な理由があったと言えないことは余りにも明かである。    
 5 まとめ 
   『太平洋戦争』の著者家永三郎は、昭和61年(1986年)に初版を改訂した第二版において、当時の歴史研究の水準に照らし、初版に記載されていた《赤松命令説》を削除したが、これを岩波現代文庫に収載した平成14年7月16日には、《梅澤命令説》もその根拠が失われていたのであるから、これを削除して発行するのが、同書が標榜している「学会の到達水準」に沿った措置であった(それがなされなかったのは著者の家永三郎が平成14年11月に89歳で死去したことと無関係ではあるまい)。 
   岩波現代文庫『太平洋戦争』の当該記述が、その出版当時から原告梅澤に対
する名誉毀損の不法行為を構成するものであることは明かであり、現在もその
販売を続けている被告岩波は直ちに出版を停止すべきである。 
author:南木隆治, category:-, 01:35
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の3『第2 被告大江健三郎著『沖縄ノート』による不法行為について』
第2 被告大江健三郎著『沖縄ノート』による不法行為について 
 1 本件書籍三『沖縄ノート』と問題の所在  
  ⑴ 『沖縄ノート』について 
被告岩波書店が発行する岩波新書『沖縄ノート』(甲A3)は、被告大江健三郎が著述し、昭和45年9月に初刷が発行されて以来、平成19年11月15日に53刷が発行され、これまで合計30万2500部が出版されてきた。 
    被告らによれば、『沖縄ノート』は、 太平洋戦争で本土防衛のための飛散な戦場とされ多数の住民が犠牲になるなど、本土のかめに犠牲にされ続けてきた沖縄について「核つき返還」が論じられていた1970年の時点において、沖縄の民衆の怒りの鉾先が自分たち日本人にむけられることを意識しつつ、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問いなおした論評であるという(被告書面⑴第1p7)。 
  ⑵ 匿名性と同定可能性について
    被告らは、ある記事等がある人の名誉を毀損するかどうかは「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈されるものである」ことから、一般読者が本件各書籍を読んで、その記述自体から、表現が誰に関するものであるか特定されることが必要であるところ、『沖縄ノート』の本件各人格権侵害表現は、いずれも「守備隊長」とあるだけであり、梅澤裕ないし赤松嘉次といった氏名が顕かにされていないことから、通常の読者は、それが原告梅澤ないし赤松隊長に関する記述だとは特定できないため、匿名性が保たれており、原告梅澤に対する名誉毀損も赤松隊長の遺族である原告赤松に対する人格権侵害も成立する余地がないと主張する。 
しかし、上記被告らの主張は、柳美里著『石に泳ぐ魚』訴訟事件の判決が「表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するものであって、採用することができない」として排斥したものと同じものであり、全く失当である。けだし、同判決が判示しているように「小説上の特定の表現が、ある人にとって侮辱的なものか、又は、その者の名誉を毀損するか否かについては、『一般の読者の普通の注意と読み方』を基準とすべきであるとしても、その前提条件ともいうべき「表現の公然性」、すなわち、特定の表現がどの範囲の者に対して公表されることを要するかは、事柄の性質を異にする問題である。」からである(甲C2の1)。たとえ「一般読者」が知り得なくても、「不特定多数」が当該記述の対象を特定することができれば、名誉毀損の成立を否定する理由はないということができよう。
『沖縄ノート』は、昭和45年9月から現時点まで37年間にわたり、30万部以上が一般の書店などで販売され、多数の読者に読まれてきたものであり、そのなかには、旧軍の関係者や沖縄戦の研究者、そして集団自決に関して記述した他の書籍を読んだ者など、当該記述が座間味島と渡嘉敷島の元守備隊長が原告梅澤と赤松隊長を指すものであることを認識しえる不特定多数の者が存することを否定することはできない。
渡嘉敷島と座間味島の「守備隊長」が誰かを、一般人は知らないから名誉毀損は成立しないという被告らの論法は、特定都市の首長や裁判所の所長といった特定人に対して「殺人鬼」等の根拠のない誹謗を浴びせても、その名は全国的に知られていないから名誉毀損は成立しえないと居直るかのごときものである。   
たった一人しかいない渡嘉敷島の「守備隊長」が赤松隊長を特定する記述であり、同じく座間味島の「守備隊長」が原告梅澤を特定する記述であることは明かである。 
尚、特定性ないし同定可能性の問題の詳細については、原告準備書面(2)第2の54頁以下、原告準備書面(5)第5(p19〜)におい論述したとおりである。  
  ⑶ 本件各記述の個人非難性について    
    被告らは、原告らが問題としている本件各記述(訴状ないし原告書面⑴記載の「『沖縄ノート』の『集団自決命令』に関する事実摘示(その1〜4)」をいう)につき、いずれも沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題として捉え返したものであり、いずれも集団自決の責任者個人を非難するものではないという(被告書面⑴p7)。
しかしながら、それが個人を非難するものであるかどうかは、名誉毀損の判断基準と同じく「一般の読者の普通の注意と読み方」を基準にすべきところ、『沖縄ノート』には、渡嘉敷島と座間味島での集団自決が赤松隊長ないし原告梅澤を指す「守備隊長」により発せられた《住民は、部隊の行動を妨げないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令によるものであるとする表現があり、とりわけ赤松隊長が、その《命令》を発したことを前提事実として、「戦争犯罪者」「屠殺者」といった中傷を浴びせたうえ、「あまりにも巨きい罪の巨塊」を犯した「かれ」は、「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」との非難を行なっており、それが集団自決の責任者個人を非難するものではないという被告らの弁明は成り立つ余地がない。
    事実、曽野綾子は、『沖縄ノート』の記述について、平成12年に司法制度改革審議会において「風評を元に『罪の巨塊』だと神の視点に立って断罪のした人もいたのですから、それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました」であると批判しており(甲B3p4)、平成15年には、『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』(月刊誌正論2003年9月号所収)と題する論文において「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感じた」(甲B4p113下段〜)としている。
この点、被告大江は、当公判廷において曽野綾子の読み取りは、「誤読」であると陳弁したが、全く的外れの言い訳であり、むしろ、曽野綾子の「誤読」なるものは、被告大江の誤読に基づくものであったことは後述するとおりである。
⑷ 「公正な論評」の法理について 
    『沖縄ノート』の本件各表現は、いずれも事実摘示と意見論評としての性格を併せ持つものであるところ、意見論評の表現による名誉毀損の成立については、最高裁平成9年9月9日判決(甲C6)が判示した基準、すなわち「ある事実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、右意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、右行為は違法性を欠くというべきであり、仮に右意見ないし論評の前提としている事実が真実であるとの証明がないときにも、事実を摘示しての名誉毀損における場合と対比すると、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定されると解するのが相当である。」が妥当する。
これに拠れば、本件各記述の論評部分による不法行為の成否は、➀それが人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものかどうか、➁ 論評が前提とする事実の重要な部分についての真実性ないし相当性が認められるかどうかにかかっていると解される。          
author:南木隆治, category:-, 02:08
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の4
ア 名誉毀損の記述について 
『沖縄ノート』の記述において座間味島の「守備隊長」であった原告梅澤の名誉を毀損しているのは、次の記述である(以下、本件記述1という)。
      「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生と、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生き続けているのである。生き延びて本土にかえりわれわれの間に埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」(甲A3p69〜)
     イ それは「この事件の責任者」である「個人」に対する批判である。 
『沖縄ノート』を通読した一般読者は、上記記述が、慶良間列島で発生した集団自決は、渡嘉敷島と座間味村の「守備隊長」が発した「《部隊は、これから米軍を迎えうち、長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、部隊に食糧を提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」によって生じたと読み取るものと思われる。
       なるほど、文章の形式上、《命令》を発した主体は「日本人の軍隊」となっているが、そのあとに続く「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、なにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから・・・」を読めば、《命令》を出したのは、「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している」「個人」であることがわかる。そして「この個人の行動の全体」の語句が、示唆しているのは、➀集団自決を強制する《命令》を発しながら、➁自らは生き延びて本土にかえり、➂なにひとつあがなわないまま知らん顔で生活していることであることが読み取れる。
だからこそ、「この個人の行動の全体」は、「いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのである」という日本人全体に対する批判に結びついていくのであるが、その批判は、「この個人」に対する批判を下敷きにしており、日本人全体を「この個人」になぞらえるという構造になっているのである。
 すなわち、本件記述1の「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお」以下の文章は、日本人全体のあり方を批判するものであるとともに、「個人」としての「この事件の責任者」を批判するものなのである。
ウ 「この事件の責任者」とは二人の「守備隊長」である。
無慈悲な自決命令を発した「この事件の責任者」である「この個人」とは「守備隊長」であることは、本件記述2に「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男・・・『命令された』集団自決を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長」(甲Ap208)とあることから、容易に判明する。
座間味島の集団自決についは、直接の言及はないが、➀慶良間列島の集団自決が、座間味村と渡嘉敷村の二カ所で行なわれたことが記述されていること(「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」)、➁渡嘉敷島の守備隊長の責任が、渡嘉敷島での集団自決に限定されていること(「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」)、➂渡嘉敷島での集団自決の責任者として、何の説明もなく当然のごとく渡嘉敷島の守備隊長が特定されていることから、座間味村の集団自決の責任者も、また、当然に、座間味島の守備隊長であると推認されることから、一般の読者は、座間味島で生じた「この事件」すなわち集団自決の「責任者」とは、座間味島の「守備隊長」であると読み取ることになる。  
実際、被告大江も、「この事件の責任者」とは、「1945年当時の慶良間列島の二人の守備隊長のことです」としており(乙97 p11)、これまでの原告らの主張を裏付けしている。 
   エ 《梅澤命令説》の事実摘示  
     したがって本件記述1は、渡嘉敷島の集団自決は渡嘉敷島の「守備隊長」だった赤松隊長から発せられた《命令》によって発生し、座間味島の集団自決は、座間味の「守備隊長」だった原告梅澤から発せられた《命令》によって発生したとの事実を摘示したものと読み取れるものである。
     すなわち、特定の表現が事実の摘示を含むものであるか否かは、「一般の読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行なうか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないし婉曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である」(最高裁平成9年9月9日判決・甲C6)とされているところ、どんなに控え目にみても、本件記述1が、原告梅澤が自決命令を発したという《梅澤命令説》を間接的ないし黙示的に主張するものと理解されることは明らかであるからである。
 また、本件記述1において引用されている上地一史著『沖縄戦史』には
「梅澤少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子
供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した」(乙5p51)との記述があ
り、『沖縄ノート』を読む一般の読者の中には、予め『沖縄戦史』を読み、
或いは、『沖縄ノート』の引用に接してこれを読むものが相当数いたこと
が推認される。このことも前記基準における「公表当時の読者の知識」に
含めて解されるべきであるし、そもそも明示の引用をもって「黙示的な主
張」があると解することもできる。
いずれにせよ、本件記述1をもって《梅澤命令説》の事実の摘示がある
と解することの合理性が認められるというべきである。
     尚、本件記述1が《梅澤命令説》の事実の摘示を含むものである以上、
それが原告梅澤の名誉を甚だしく毀損するものであることは敢えて論じるまでもない。
 
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の5
⑵ 原告梅澤の精神的苦痛について
    『沖縄ノート』の本件記述1は、座間味島の集団自決が原告梅澤が発した
《命令》によるものとする事実を摘示するものであり、これによって原告梅
澤が被っている精神的苦痛は、『太平洋戦争』によるもの(第1−3)と同
一である。《梅澤命令説》の記述につき、『太平洋戦争』のそれは明確であ
り、『沖縄ノート』のそれは、曖昧であるとの違いがあるが、『沖縄ノート』
が著名なノーベル賞作家である被告大江の著述であり、30万2500部が一般
書店等で販売されたことに鑑みれば、その権利侵害の程度は、初版を含めて
約18万部が発行された『太平洋戦争』を凌駕しており、原告梅澤が被った
精神的苦痛もそれ以上のものがあると言わざるを得ない。
  ⑶ 真実性と相当性について
   本件記述1が摘示している《梅澤命令説》が事実ではなく、遅くとも平成
12年12月に発行された宮城晴美著『母が遺したもの』が、沖縄タイムス出
版文化賞を受賞した平成13年12月には《梅澤命令説》の記述は、相当性を
失ったというべきである。
⑷ 結論
  したがって、《梅澤命令説》の事実を摘示する『沖縄ノート』の本件記述
1は、原告梅澤の名誉を毀損するものであることは明かであり、遅くとも相当
性が明白に失われた平成14年以降に発行された第47刷以後の販売について
は、原告梅澤に対する名誉毀損の不法行為の成立が認められる。 
3 『沖縄ノート』による原告赤松に対する人格権侵害について
  ⑴ 人格権侵害の成立要件について   
    死者の名誉毀損ないし遺族の敬愛追慕の情を侵害したことによる不法行為の成立要件については、原告準備書面(6)第7、第8で詳論したとおりである。 
被告らは、沖縄戦における慶良間列島での集団自決は、既に歴史的事実に移行している等として成立要件の厳格化を主張するが、『沖縄ノート』が発行された昭和45年当時、赤松隊長は49歳で健在であり(甲C1の2)、その記述内容も、その年の3月28日に同人が渡嘉敷村主催の慰霊祭に招待され、埠頭から渡島するところを活動家らに阻止されたという極めて時事的な事件を取り上げて論評したものであり、歴史的事実を取り上げたものということは到底できない。  
また、『沖縄ノート』の渡嘉敷島の守備隊長であった赤松隊長に関する本件各記述の論評が前提としている《赤松命令説》は、その出版から3年後に発行された曽野綾子著『ある神話の背景』(甲B18)によって全く根拠を失っており、その後も渡嘉敷島での集団自決は、その原因と責任をめぐり、第3次家永教科書訴訟が提起されるなど、長らく国民的論争の中心にあり続けてきたのであり、現在もまた教科書の記述のあり方をめぐり、政治的論争の渦中にあることは公知の事実である。すなわち、集団自決の原因や責任をめぐる諸事実は、未だ歴史としての扱いも定まらぬものであり、歴史的事実への移行を理由にして虚偽の事実を流布することによる人格権侵害の要件を厳格化することを正当化する理由はないというべきである(個人に対する責任の論評は、あくまで事実に基づいてなされるべきものであり、根拠のない事実による人格権侵害を容認することは、無責任な言論の跋扈を招き、却って言論の自由と真実を蔑ろにするものである)。   
本書面の第4(渡嘉敷島における隊長命令の不在)で詳述するように、本件では、渡嘉敷島における集団自決が赤松隊長の《命令》によるものであるという《赤松命令説》は根拠のない虚偽であることが明かになっており、『沖縄ノート』の本件各記述における赤松隊長に対する「人間の立場を越えたリンチ」ともいうべき究極の人身攻撃によって原告赤松が被った人格権侵害が不法行為を構成することは明かである。   
  ⑵ 本件各記述による人格権侵害について
   ア 本件記述1における「この事件の責任者」が、二人の「守備隊長」を指
すものであり、渡嘉敷島の集団自決については、渡嘉敷島の守備隊長であった赤松隊長のことであり、赤松隊長が無慈悲な《命令》を出したという《赤松命令説》の事実の摘示を含むものであることは、それが《梅澤命令説》の事実の摘示を含むとした前記2⑴と同じ理由である。
     とりわけ渡嘉敷の赤松隊長に対しては、「屠殺者」「戦争犯罪者」等の個人非難が向けられ、本件記述3に「あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどおとなしく」との記述があり(甲A3p211)、誰が読んでも赤松隊長が《命令》を発したと読み取れるのであり、それが《赤松命令説》の事実の摘示を含むものであることは余りにも明らかである。
     尚、被告大江は、その陳述書と証言において、本件記述1と本件記述3の「命令」の意味につき、《部隊の行動をさまたげないため、また部隊に食糧を提供するため、いさぎよく自決せよ》の《命令》ではなく、「タテの構造」によって住民たちに押し付けられた手榴弾配布のような軍隊の実際行動の総体(乙97p13)ないし「時限爆弾としての命令」(乙97p27)をいうと陳弁するが、そうした解釈が成り立つ余地のないことは⑹で後述する。
   イ 本件記述3(甲A3p210〜)には、「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえず繰くりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」との表現がある。
     「罪の巨塊」は、被告大江の造語であり、その正確な意味を読み解くのは困難を伴うが、普通に読めば、それが集団自決を命じたという到底償えない重く「大きな罪」の意味だと読み取れる。
     すなわち前記表現は、赤松隊長が集団自決を命じたことを非難するものであり、その罪を明確に断罪するものである。それは《赤松命令説》を間接的に事実摘示するものであるとともに、《赤松命令説》を前提事実としてなされた論評である。
   ウ 同じく本件記述3には、「二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会」という表現がある(甲A3 p211)。  
     そこで「屠殺者」とされているのは、「守備隊長」だった赤松隊長である。
被告大江は「屠殺者」の意味について「むごたらしく人間を殺した者」というが(乙97 p21)、むしろ、ハンナ・アーレント著(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン』のなかで大虐殺がなされた場所の意味で使われた「屠殺場」(甲B90 p8)の用法が持つ意味になぞらえて「虐殺者」と解するのが自然であろう。
     「むごたらしく人間を殺した者」であろうが、「虐殺者」という意味であろうが、「屠殺者」という表現が、激しい人格非難を伴うものであることは疑いを入れず、また、前記表現を事実の摘示と解そうとも、意見論評と解そうとも、《赤松命令説》を間接的・黙示的に摘示し、或いは、それを前提事実としていることは明かである。
エ 同じく本件記述3には、「ひとりの戦争犯罪者にもまた」との表現がある(甲A3p211)。「ひとりの戦争犯罪者」が赤松隊長を指すものであり、赤松隊長が《命令》を下したことを間接的に事実摘示するものあるか、或いは、《赤松命令説》を前提事実とする論評であり、やはり赤松隊長の名誉を毀損する個人攻撃である。
オ 同じく本件記述3には、「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」との表現(甲A3 p210)がある。この「ペテン」の表現が、赤松隊長が当時の週刊誌等で命令を出したことを否定するコメントをしていることを捉えてなされたものあることは明かであるから、その表現が《赤松命令説》が真実であることを前提事実とした論評表現であり、嘘をついて責任を逃れようとする卑劣な男だという人格非難を伴ってなされた赤松隊長に対する個人攻撃であることについても、異論はなかろう。
カ 本件記述4には、「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」(甲A3 p213)との表現がある。
被告大江は、日本軍の典型的な犯罪である集団自決の将来における再現をふせぐために、裁判を開くことを想像したとし、「旧守備隊長をアイヒマンになぞらえ、『沖縄法廷』による公開処刑をまで言い出している、とする読み取りは、まったくあたっていません」(乙97p26)とする。
しかしながら、ナチスのアイヒマンがユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の責任者であり、戦後、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの工作員に拉致され、世界中に公開された「イスラエル法廷」で裁かれ、絞首刑に処された事実を知るものにとっては、「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」との表現は、イスラエル法廷でホロコーストの責任者として有罪の裁きをうけ、絞首刑に処せられたアイヒマンになぞらえて、赤松隊長もまた、集団自決という虐殺の責任者として裁かれ、絞首刑にされてしかるべきだという断罪の響きを伴うものであることは否定できないであろう(因みに、原告らは、公開処刑などとは一言も述べていない。被告大江の誤読である)。
本件記述4の前記表現は、《赤松命令説》を間接的に主張し、または、黙示的に示すものであり、百歩譲っても、《赤松命令説》を前提事実として、赤松隊長をまさしく神の視点(自分は絶対に正しいという視点)に立って断罪する人身攻撃の論評であることは明かである。 
     尚、被告大江は、本件記述4の趣旨に関し、陳述書(乙97p25〜)や証言において、ドイツ青年の罪責感を取り除くための応分の責任を果たすため、自分を公衆の前で絞首するように提案したことを取り上げ、日本青年にはドイツ青年のような罪責感が一般的にないとか、赤松隊長には、そうした殊勝な心がけもないかのような論評を行なっている。しかし、アイヒマンがした上記提案について、アーレントは「無意味なおしゃべりにすぎない」(甲B90p188)と切り捨てており、ドイツ青年の罪責感についても「安っぽい感傷に逃れようとしている」と手厳しい(甲B90 p194)。被告大江の上記陳弁は、それこそ「無意味なおしゃべりにすぎない」である。
  ⑶  《赤松命令説》の真実性・相当性について
  本件記述1〜4は、いずれも《赤松命令説》を間接的・黙示的に事実摘示する事実表現ないし《赤松命令説》を前提事実とする意見論評であるが、《赤松命令説》が事実ではなく架空であったことは、第4(渡嘉敷島における隊長命令の不在)で詳述する。
そして遅くとも、昭和49年に発行された『沖縄県史10巻』(乙9)から《赤松命令説》が削除されてから以後は、相当性も消失したことは明かである。
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の6
⑷ 原告赤松が被った精神的苦痛等の損害について
ア 赤松陳述書・証言
(ア)原告赤松は、13歳年上の兄で、優秀な軍人であり、親がわりとして家族の長のような存在であった赤松大尉を、幼き頃から強く尊敬していた。この原告赤松の思いは、「兄貴がかわって家業に精を出してくれて、おかげで私も大学まで進学することができたという状態ですので、親がわりのようなもんですね。」「尊敬の対象であり、親がわりですね。」(赤松調書p1)、「このような時代でしたので、特攻に行く役目を担っていた兄に対しては、私は、ただただ尊敬の気持ちを持ったものです。」(甲B79・赤松陳述書p6)などの証言からもうかがえる。
(イ)原告赤松は、昭和28年頃、敬愛する兄である赤松大尉が、自決命令を出したなどという虚偽の事実が記載された『鉄の暴風』を始めとする文献等に接したが、赤松大尉本人に事実関係を確かめることもできず、親族とともに、長年、悩み苦しんでいたが、『ある神話の背景』の出版によって、赤松大尉の無実が証明され、赤松大尉はもちろんのこと、自分や家族全員が助かったと思った。しかし、赤松大尉を極悪人と決めつけた『沖縄ノート』がその記載内容を変更することもなく、現在に至るまで出版されていたことを知るに至って、赤松大尉はもちろんのこと、自分や親族の名誉や、赤松大尉に対する敬愛追慕の情が大きく侵害されていることを知り、多大なる精神的苦痛を被ったのである。この気持ちは、以下の原告赤松の証言によく表れている。
 「私にとっては、一旦は、兄の無実が証明されたと思っていたのに、未だにこのような兄が自決命令を出したなどという真っ赤な嘘の話がまかり通っているなど許せない、このようなことを野放しにすることはできない、このような嘘を放置していれば、亡くなった兄に対しても申し訳ないと、強い怒りを覚えました。」(甲B79p6)、「『沖縄ノート』には、兄が渡嘉敷島で自決命令を出して多くの村民を集団自決させた悪の権化であるとか、兄が嘘と自己欺瞞を繰り返す恥知らずな人間であるなどといって、兄に対する誹謗中傷の限りが記載されています。このような誤った事実に基づく屈辱的な記載が、未だ多くの読者の目にふれ、誤解を招く状態になっていることにより、終戦当時、本土防衛の犠牲となった多くの沖縄の方々のため、自分が汚名を忍ぶことで年金が給付されるのならと、敢えて沈黙を守った兄の気高い心情が踏みにじられていると感じました。」(甲B79 p7)、「私自身はこの書き方(「集団自決を強制したと記憶される男」「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで」)が非常にもう。何しろこの本を読みますと、大江健三郎先生は兄に直接取材をされたこともなく、渡嘉敷島へも一度も行かれていないと。それにもかかわらず、兄の心の中まで踏み込むような中傷・誹謗が書けるんだから、これは大したもんだなと感心しますと同時に、それはもう憤りを覚えますね。」(赤松調書p5)
(ウ)そして、原告赤松は、赤松大尉の無念を晴らすとともに、自己の侵害された名誉を回復せんがために本訴訟を提起したのである。このことは、以下の証言から明らかである。
「兄貴が、昭和46年だったと思いますが、雑誌の『潮』に、私は集団自決を命令していないという記事を残しとるんですけれども、それによりますと、沖縄で極悪人として面罵され、あまつさえ娘に誤解されるのはつらいから、本意ではないけども誤解されたとする点を一々説明するという筋書きで、兄の几帳面なところから細々と誤解の原因になる箇所を説明しまして、その後に。」「(無実を晴らしたいと思われていたということか。)はい。」(赤松調書p7)、「兄の無念の思いは、それはもう『私は命令していない』に十分書かれておることですけども、一々るる説明した後で、ペンも凶器たりうると、300人もの人間を殺した大悪人のことについて書くならば、その資料の質を問い、数多くの証人に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないかとなじった後で、ここに述べるのは私の血の叫びだといえば、読者はやはり眉をひそめられるであろうかと、これが兄の無念さを代表しとると思いますね。今ごろこんな裁判をやっとると聞いたら、兄は恐らく無念がって化けて出てくるかもしれませんわ。」(赤松調書p8)
なお、赤松大尉は、生前、原告赤松に対し、自己の思いを述べたり、被告らに対して記載の修正を求めたり、訴訟を提起するなどといったことはしていないようであるが、生前に上記手記を公表していたことから明かなように、事実を明らかにして、汚名を晴らし、名誉を回復したいという強い希望を持っていたことは間違いない。
イ 佐藤陳述書
赤松大尉の長女である佐藤加代子は、その陳述書(甲B80)において、以下のとおり述べる。
佐藤加代子は、昭和41年、『鉄の暴風』を読んで、赤松大尉が太平洋戦争末期に渡嘉敷島で多数の住民に対し集団自決命令を出した旨の記載があることを知ったものの、赤松大尉はおろか、家族の誰にも話すこともできぬまま悩んでいた。その後、多くの文献や雑誌、新聞等において、赤松命令説が報道されるようになり、これらの報道により、赤松大尉の近隣住民にも知れるところとなり、赤松大尉自身はもとより、その妻(母)も、共に、大変つらい思いをしたようであった。また、佐藤加代子自身も、友人から指摘を受けるなどして辛い思いをしてきた。昭和45年9月に被告大江の『沖縄ノート』が出版され、赤松大尉を厳しく非難断罪する論調で《赤松命令説》が記載されていることを知り、大変ショックを受け、社会的に大きな権威である被告大江や被告岩波書店の出版によるものであることから、社会的には、当然、赤松命令が真実であるとの扱いを受けるであろうと思われ、恐怖すら感じた。そして、この期に及んでも赤松大尉本人とは面と向かって話すこともできず、真実か否かを判断できぬまま胸を痛める日々を長く過ごしていた。その後、曽野綾子著『ある神話の背景』の出版により、《赤松命令説》を根拠づけるものはなかったと明言された内容が活字になったということで、相当救われた思いがしたものの、一度固定した周囲の認識はそう変わるものでもないため、赤松大尉や母はもとより、自分自身もこの問題は心中に始終つきまとっていた。佐藤加代子にとって、赤松大尉は、温和で、正義感も強く、気骨や誇りを人並み以上に持ち、人にもきちんと頭を下げることもできる公正な人で、家族を大事にし、娘にも愛情を注いでくれた、「良い父親」であり、親として尊敬できる人物であった。赤松大尉の悔しい思いや無念については、本訴訟提起後、『潮』(甲B2)の「私は自決を命令していない」という赤松大尉の手記を読んで知ることができた。原告となってはいないものの、亡母、妹や従姉妹(父の姪)ら他の親族とともに、赤松大尉の強い無念や苦渋、悔しさについては重要な問題として尊重している。
以上のように、原告赤松のみならず、赤松大尉の妻、娘らの赤松大尉に対する敬愛追慕の情も大きく侵害され、耐え難い精神的苦痛を被っていることが明らかであり、原告赤松は、これら親族の思いも全て抱えた上で、本訴訟に臨んでいることも忘れてはならない。
  ⑸ 結論
     以上述べてきたところから、『沖縄県史10巻』(乙9)が発行された昭和49年3月31日以降は、《赤松命令説》を事実摘示し、或いは前提事実として激しい人格攻撃を行なう『沖縄ノート』第5刷(昭和49年7月10日)以降の出版は、不法行為を構成するものであることは明かである。
author:南木隆治, category:-, 02:14
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の7
4 被告大江の供述について 
  ⑴ 被告大江が主張する「命令」の意味について
    さて付言すると、被告大江は、『沖縄ノート』に記載された「命令」の意味について、それが、「日本軍−32軍−そして慶良間列島の二つの島の守備隊というタテの構造によって、沖縄の住民たちに押し付けられたものであり、直接には二つの島に入ってきた日本軍によって、多様なかたちでそれが口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された、その総体を指す」(乙90p13)とか、「『タテの構造』の、『最後の時』における集団自決の実行は、すでに装置された時限爆弾としての『命令』でありました」(乙90p28)と説明し、『沖縄ノート』の本件記述1に明確に記載された具体的な《部隊の行動をさまたげないため、また、部隊に食糧を提供するため、住民はいさぎよく自決せよ》という《命令》のことだと読み取ることは、「不十分ではなくて間違っていると思います」(大江調書p29)と主張した。
    ところが、被告大江が自ら認めるように、『沖縄ノート』には、かかる「タテの構造」に基づく軍隊の実効行為の総体としての「命令」のことも、「時限爆弾としての命令」のことも一言も出てこない(大江調書p28、p46)。そればかりか、その出版当時、そのようなことは他の場所でも論じられたこともないのである(大江調書p28)。 
    これでは一般の読者は(テレパシーを使うか、被告大江のレクチャーでも受けない限り)、『沖縄ノート』の「命令」の語を被告大江が解釈する意味に捉えることはできない。にもかかわらず、被告大江は、「読める」と強弁し、「今あなたが、自分が一般の読者の代表だと言われればそれはショックを受けますけれども、私は今までの経験ではそう思っておりません」と揶揄までしてみせた(大江調書p27)。
    思うに、
「名誉を毀損するとは、人の社会的評価を傷つけることに外ならない。それ故、所論新聞記事がたとえ精読すれば別個の意味に解されないことはないとしても、いやしくも一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈した意味内容に従う場合、その記事が事実に反し名誉を毀損するものと認められる以上、これをもつて名誉毀損の記事と目すべきことは当然である」(最高裁昭和31年7月20日判決) 
    本件各記述にある「命令」の意味について、いかに精読したとしても、被告大江が解釈してみせた「タテの構造による軍隊の実効的行動の総体」とか「時限爆弾としての命令」の意味に読む余地はないと解するが、百歩譲って、その余地があるとしても、その名誉毀損性(人格利益侵害性)は、あくまで「一般読者の普通の注意と読み方を基準にして解釈した意味内容」に従って判断されなければならないはずなのである。  
⑵ 曽野綾子の「誤読」について 
    被告大江は、曽野綾子が、『沖縄ノート』の記述について、平成12年に司法制度改革審議会において「風評を元に『罪の巨塊』だと神の視点に立って断罪のした人もいたのですから、それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました」であると批判し(甲B3 p4)、平成15年には、『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』(月刊誌正論2003年9月号所収)と題する論文において「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感じた」(甲B4p113下段〜)としたことに対し、曽野綾子の「読み間違え」(大江調書p16)であり「誤読」であるとしている(調書p44)。
そして原告赤松がその証言で『沖縄ノート』の記述について自分の兄や自分を傷つけるものと証言したことについは、原告赤松が、曽野綾子の「誤読」に影響されているとまで主張するに至った(調書p45)。
    被告大江が、なにをもって曽野綾子の読み取りが「誤読」であると断ずるのかは判然としないが、どうやら、被告大江が集団自決した住民の夥しい死体の塊を意味すると解説した「罪の巨塊」の「巨塊」について、「巨魁」と読み誤っているとの主張のようである(甲B95参照)。
    しかし、曽野綾子の前記批判をよく読めば分かるように、曽野綾子は、『沖縄ノート』の本件記述3にある「罪の巨塊」の表現に、神の視点(自分は絶対に正しいという視点)に立って、他人の罪を断罪することの恐ろしさを感じ取ったのであり、決してそれ自体が「大悪人」の意味にとれる「巨魁」と読み誤っているわけではない(尚、住民に自決を命じて大量虐殺するという巨きい罪を犯したものが大悪人であることは明かである)。  
また、「罪の巨塊」の「罪」についても、被告大江は、「それをひとつの家族に死をもたらすという『罪』とは次元の異なった(神でないものには云々できない)「罪」を指す、という読み取りをする人がいます」として、曽野綾子の前記批判における「罪」という言葉に異議を差し挟んでいる(乙90p18)。    
しかし、曽野綾子による「罪の巨塊」における「罪」の理解は、被告大江がいう普通の「罪」のことであることは明かである。曽野綾子は、調査もせずに、証拠もないにもかかわらず、自分は絶対正しいという神の如き信念をもって、「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する」ことを批判しているのである(司法制度改革会における曽野綾子の講演〈甲B3〉が陪審制の導入について、真実を発見することの困難さを指摘するものであったことは示唆深い)。
曽野綾子がカトリックの信仰をもっていることを持ち出しているのも(調
書p16)全くのお門違いであると言わざるを得ない。
尚、作家の井沢元彦が、被告大江の弁明が成り立ち得ないものであることを「〈罪の巨塊〉とは〈集団自決の死体〉のことという弁明は少し苦しいのではありませんか」という『サピオ』所収の論文で明確に指摘している(甲B96)。
結局、被告大江が主張した曽野綾子の「誤読」は、被告大江の「誤読」によるものだった。
  ⑶ 「誤読」に対する物書きの責任について
ところで、たとえ、著者の認識に照らすならば、それを「誤読」であると解釈する余地があるとしても、物書きは、その職業倫理として、正しく内容を読者につたえる責務があるのではなかろうか。一般読者のなかに自分の真意が伝わらず、著述を誤読するものがあれば、そうした誤読を招かないよう心がけ、訂正するなり、書き直すのが物書きの倫理ではないだろうか。
そうした素朴な質問に対し、被告大江は、「誤読によって人を傷つけるということを、作家は予想することができますか」「作家がものを書いている時、どういう人が読んで誤読するかということを予期すれば、私は責任をとることがきると思いますよ。それを予期しないときに、どうしてその責任をとることができるんですか。責任をとるということは、どのような行為ですか」(調書p45)と反論した。いうまでもなく、責任をとるということは、まず、当該著作を訂正するか書き直すことである。 
被告大江は、「タテの構造による命令」や「時限爆弾としての命令」が集団自決の原因だというのであれば、そして「罪の巨塊」を「集団自決の死体の塊」というのであれば、そのことが一言も書かれていない『沖縄ノート』の解釈として主張するのではなく、それを書き直すか、新たな書物を書くべきである。
原告梅澤や赤松隊長をはじめ、多くの人を傷つけ、懊悩させてきた『沖縄ノート』は、そうした傲慢な作家の独善の産物であった。
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の8 『第3 座間味島における隊長命令の不在』
第3 座間味島における隊長命令の不在
 1 梅澤命令説の問題点  
 (1)梅澤命令説
改めて、文献に登場する《梅澤命令説》がいかなるものかを確認すると、まず、『鉄の暴風』(乙2)には、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。」(p41)と《軍命令》ないし《梅澤命令》が描写されている。
 一方、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(乙4)では、《梅澤命令説》は、「梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』と。」と表現され、また、上地一史著『沖縄戦史』(乙5)では、「梅沢少佐は『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命じた」(p51)とされ、さらに、『沖縄県史第8巻』(乙8)では、「梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得る者は全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。」(p412)と書かれているが、これらは同一の内容を有するものであり、『鉄の暴風』の記載よりもより具体的である。
 (2)原告梅澤の主張
かかる《梅澤命令説》について、原告梅澤は、忠魂碑前に住民を集めて玉砕を命じた事実も、「働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ」などと住民に命じた事実も全くない、むしろ自決を考える住民に生きるよう言ったと一貫して主張、供述している。
 具体的には、昭和20年3月25日の夜、第一戦隊の壕にやってきた宮里盛秀助役ら5名の村幹部が、原告梅澤に対し住民らの自決のための弾薬などを求めたのに対し、原告梅澤は、「とんでもないことを言うんじゃないと。何ということを言うんだと。死んではいけないと、死ぬことはないじゃないかと、あなたたちは後方に下がって、明日から我々は陸戦をするんだから、後方に下がって勝手知った村の中の森林あたりに壕もあると。食糧も隠してあると。そこで持ちこたえてくれ」と、そう言ったのであった(梅澤調書p5)。
 2 梅澤命令説の成立  
 (1)『鉄の暴風』
《梅澤命令説》が初めて文献に記されたのは、昭和25(1950)年の『鉄の暴風』(乙2)である。そこには、下記の記述がある。
「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である」(p41)。
この時点では、自決をした住民の人数は52人であった。また、玉砕を命じた主体は「軍」と表現されていた。
 (2)『座間味戦記』と宮城初枝手記『血塗られた座間味島』 
 昭和43(1968)年の下谷修久『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)には、軍命令・隊長命令があった旨が、当時の座間味村村長や遺族会会長の序文にも記され、さらに、所収の宮城初枝手記『血塗られた座間味島』においては
「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」(p39)
という内容で、《梅澤命令説》が語られている。
 この『血塗られた座間味島』の《梅澤命令説》の宮城初枝記述は、座間味村当局が琉球政府及び日本政府に提出した『座間味戦記』(乙3。1957年ころ)の下記部分の引用であると大城将保の指摘がある(甲B14 p37頁)。
 「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は村の忠魂碑前に於いて玉砕する様にとの事であった」(乙3 p39)
大城は、宮城初枝にも面会し聞き取り調査を行っておりれ(だからこそ、「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している」(甲B14 p46)と大城は書くのである。また、甲B11の昭和61年の神戸新聞記事中の大城の談話には「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」とある)、引用であるという重要事実は、直接宮城初枝に確認したからこその断定であって正確なものと考えられる。
 すなわち、「戦える者は男女を問わず戦闘参加、老人子供は忠魂碑前で自決せよ」という内容をもつ《梅澤命令説》は、1957(昭和32)年ころの『座間味戦記』に初めて現れ、それが引用されて、1968(昭和43)年、公開の文献である『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)に載ったこととなる。
 (3)『秘録沖縄戦史』
 《梅澤命令説》を一般に広めることとなった重要書籍が、昭和33(1958)年の山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(乙4)である。そこに叙述される《梅澤命令説》の内容は下記のとおりである。
「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』と。然も、未だ敵は上陸せず一線も交えない中にである。従順な住民たちは老人も子供も晴れ着で死装束をして、続々集り、忠魂碑前は村民で埋まった。梅沢少佐と村長が現れているとき、自決は決行されることになっていた。」(p229)
「二十六日午前十時、物凄い掩護射撃のもとに上陸が始まった。−中略−梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは、そのまま実行したのである。」(p230、231)
この書籍では、自決した住民の数は155人となっている(p228)。
この山川泰邦の記述は『座間味戦記』の引用である(大城将保も同趣旨を述べている。甲B14 p37下段)。具体的には、宮城晴美が『母の遺したもの』(甲B5)でこう書いている。
「(山川泰邦)氏もそのなかで座間味島の『集団自決』の悲劇について、座間味村役所から陳情で出された『座間味戦記』を引用し、隊長が命令したものだと明示した。この本は、座間味村同様県内の各市町村長が『援護法』適用の陳情に際して提出した公的文書を土台に書いたもので、信憑性の高い史料として評価された。」(p256)
「『秘録・沖縄戦記』は県内外で話題の本となった。」(p256)
 この『秘録沖縄戦史』の中身は、同じ著者が内容を改訂した昭和44(1969)年の『秘録沖縄戦記』の元版(乙7)でも、大きな内容の変更はないまま維持されている(p156、158)。
 (4)『沖縄戦史』、『沖縄県史第8巻』、『沖縄県史第10巻』
 昭和34(1959)年の上地一史著『沖縄戦史』(乙5)でも、「梅沢少佐は『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命じた」(p51)とされており、叙述される《梅澤命令説》の内容は『秘録沖縄戦史』(乙4)とほぼ同様である。
 公的な文献として《梅澤命令説》を記し、《梅澤命令説》の定説化をさらに強化したのが、昭和46(1971)年の琉球政府編集の『沖縄県史第8巻』(乙8)であるが、下記のとおり、その内容は、『秘録沖縄戦史』(乙4)の要約といってもよいものであった。大城将保も、『沖縄県史8巻』は『秘録沖縄戦史』を参考にして命令内容を引用したとしている(甲B14 p37上段)。
「・・・翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに働き得る者は全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。−中略−三月二十六日午前十時、アメリカ軍は艦砲の掩護のもとに上陸してきた。その夜、村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した。」(乙8 p412)
 さらに、昭和49(1974)年の沖縄県教育委員会編集の『沖縄県史第10巻』(乙9)では、大城自身が《梅澤命令説》を記したが(p698、699)、これは、前記の『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)所収の宮城初枝手記『血塗られた座間味島』を参考にして書いたものであった(甲B14 p37上段、下段)。
 (5)整理
 大城将保の分析を参考にして整理すると、主要文献の《梅澤命令説》の引用の経過は、下記の順序ということとなる。すなわち、『座間味戦記』が《梅澤命令説》の定説化の淵源なのである。
『座間味戦記』(乙3)→宮城初枝手記『血塗られた座間味島』(『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)所収)→『沖縄県史第10巻』(乙9)
『座間味戦記』(乙3)→『秘録沖縄戦史』(乙4)→『沖縄県史第8巻』(乙8)
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の9
3 梅澤隊長命令説の破綻と訂正  
 (1)端緒:宮城初枝の告白
 上記のような経過で成立し定説化した《梅澤命令説》が、その後破綻し、訂正されていく流れが生じた端緒は、原告梅澤への宮城初枝の告白であった。
 その告白内容の要旨は、昭和20年3月25日の夜に原告梅澤を訪ねた村幹部ら5人の中に自分がいたこと、村幹部らが住民の自決のための武器提供を求めたのに対し原告梅澤がそれを断ったこと、戦後住民が援護法に基づく給付を受けるために真実ではない《梅澤命令説》の証言をしてきたがそれについて非常に申し訳なく思っている、というものであった(梅澤調書p8〜、甲B1p5、甲B5 p261〜、甲B26 p306等)。
 その時期については、原告梅澤は昭和57年6月とし、宮城晴美は昭和55年12月であるとし(甲B5 p261。なお、甲B26 p306では昭和56年12月16日となっている)、その点食い違いがある。乙66の2の封筒の消印は、かすれているが1980(昭和55)年とも読め、昭和55年というのが正しいのかもしれないが(梅澤調書p26)、いずれにしても、この再会と告白という重大事実の信用性に影響のあるものではない。
この再会場面については、『母の遺したもの』では原告梅澤は昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていた(ようであった)とし(甲B5 p262。宮城調書p6の証言も同旨)、『第一戦隊長の証言』では逆に、原告梅澤の方からそのことを話し始めたとされており(甲B26 p306)、この点も若干の齟齬がある。
    しかし、原告梅澤自身が、昭和20年3月25日の会談のことは忘れたことがなかったと供述していること(梅澤調書p9)、『母の遺したもの』が平成12年の執筆であるのに対し、『第一戦隊長の証言』は昭和63年の発表であって宮城初枝の記憶の新しい時期に本田靖春が直接取材した成果であること等からして、昭和20年3月25日の会談のことは原告梅澤は忘れておらず自分からそのことを再会した初枝に話し始めたものと考えるのが妥当である。
    この点については、甲B5『母の遺したもの』 p262には、
「母は、−中略−『夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元に伺いましたが、私はそのなかの一人』ですと言うと、(梅澤氏は)そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度『−中略−命令したは梅澤さんではありません』と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で『ほんとですか』と椅子を母の方に引き寄せてきた」
と書かれているが、原告梅澤が、「すぐには理解できない様子だった」のは、昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていたためではなく、突然のことで、目の前の女性が、35年以上前の記憶の中の女子青年団長であると認識するのに時間を要したためである。長い年月を経て、女子青年団長の面影の記憶は原告梅澤の中で薄くなり、またなにより、若い娘であった宮城初枝も初老の女性に変貌しているのであるから当然であろう(原告梅澤もその旨供述する。梅澤調書p10)。また、告白内容が分かっても驚きのあまり絶句する時間が原告梅澤にあったとしても自然である。「昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていた」という解釈は、母初枝の話を聞いての、宮城晴美の個人的な見解であろう
 (2)『沖縄史料編集所紀要』による訂正
 『沖縄県史第8巻』(乙8)と『沖縄県史第10巻』(乙9)の《梅澤命令説》を実質的に訂正したのが、昭和61年3月の『沖縄史料編集所紀要 第11号』(甲B14。以下『紀要』という)であった。
 この県史の訂正に至る経過を改めて整理すると、下記のとおりである(原告準備書面(2)p8〜、原告準備書面(5)p10〜、原告準備書面(7)p41〜参照)。
そもそも、昭和49(1974)年の『沖縄県史第10巻』においては、宮城晴美が手伝った聞き取り調査では、住民から「『隊長命令』という明確な証言は聞けず、記録からも削除した」(甲B5p259)にもかかわらず、大城将保は、解説において、宮城初枝手記『血塗られた座間味島』(乙6)を参考に《梅澤命令説》を記してしまっていた(乙9p698、699)。このことについて、不満をほのめかすような形で『母の遺したもの』(甲B5)の中で晴美が書いたのが、以下の部分である。
「(隊長からの玉砕命令について証言者それぞれに再確認した)その結果、『役場職員の伝令が来た』『忠魂碑前に集まれと言われたから』となり、『隊長命令』という明確な証言は聞けず、記録からも削除した。おそらく、母は私に事実関係に気づかせようとしたのかも知れない。
 ところが、『証言』としては隊長命令はなかったが、同じ『沖縄県史 10巻』のなかで、座間味村の戦争の概要を紹介した文章には母が書いた『隊長命令』がそのまま引用されたのである」(p259)
この県史の《梅澤命令説》の記述を知った原告梅澤は、昭和60年10月6日付けの大城宛書簡によって、訂正を求めた(なお、当該書簡の控えは原告梅澤において保管していないが、甲B25の1大城の書簡の冒頭に「十月六日付の貴翰を拝読しました」とあることから、同日付の原告梅澤の手紙が送付されていたことが分かる)。
 これに対し、大城は同月16日付の原告梅澤宛親書(甲B25の1)をもって、県史の記述に間違いがあれば修正をすることが可能なこと、そのためにも原告梅澤の詳細な手記(新資料)を示してもらいたいことなどを伝えた。
これに対して原告梅澤が手記を大城(沖縄県立沖縄史料編集所)に寄せ、それを受けて、大城が昭和61年3月の『紀要』にその手記を掲載するとともに、解説を加え、その中で、実質的に県史の記述を修正したのであった(甲B14)。
   被告は、県史は実質的修正などされていないと本件訴訟で主張するが、この『紀要』が実質的な県史の修正であることは、宮城晴美が『母の遺したもの』(甲B5)に下記のように書いていることからも明らかである(晴美は県の正式職員ではないものの、沖縄県教育委員会の県史編纂作業に調査メンバーとして参加するなど〈乙63p2、甲B5p258〉、県教委及び県史編纂と密接な関係のある者であり、その認識は決定的である)。
「さらに『沖縄県史 10巻』のなかで、私の母の記録を引用した『集団自決の隊長命令』説に抗議し、梅澤氏自身の『手記』を送って内容の訂正を求めた。
   −中略− 沖縄県教育委員会は『沖縄史料編集所紀要 第一一号』(一九八六年三月発行)に梅澤氏の手記『戦闘記録』を掲載することで、『沖縄県史 10巻』の訂正に変えた」(甲B5p267)
 被告は、この『紀要』(甲B14)の末尾6行部分は、大城自身がその意見を書いたものではなく、「原告梅澤の文」であるとか(被告準備書面(3)p8)、大城が「原告梅澤の結論を加筆し付加したものである」などと主張する(準備書面(7)p20)。大城自身も、当該部分を「私が電話で梅沢氏本人から同氏の結論的見解を聞き取って加筆したものです」と述べる(乙45p2)。
 しかし、当該部分は下記の内容であり、原告梅澤の文とも、大城が原告梅澤の結論的見解を聞いてそれを書いたものとも到底読めるものではない。
「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)」
  原告梅澤も、この部分について「私だったら『梅沢氏』なんて書きません」と述べ、自分がない旨断言している(梅澤調書p2)。
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沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面その1の10
(3)宮村幸延の『証言』書面
   ア 証言内容と取得の経緯
 次いで、《梅澤命令説》が真実でないことを明らかにすることとなったのが、昭和62年3月の宮村幸延の『証言』書面(甲B8)であった。
 その内容や取得経過は、原告準備書面(2)p10〜、原告準備書面(4)p6〜、原告準備書面(5)p12〜、原告準備書面(7)p28〜に詳論している(書証としては、甲B1 p5、甲B33 p1〜)。
   イ 証拠価値に対する異議について
この宮村幸延の『証言』書面については、被告らは、原告梅澤が宮村幸延を泥酔状態に陥れて書かせたか押印させたかしたもので内容に真実性はない旨主張し、それを支える証拠を提出している(乙17宮村幸延のメモ、乙18『仕組まれた「詫び状」』、宮城晴美調書 p27〜)。
 しかし、かかる主張は全く失当である。
 被告ら主張の不合理な点は、指摘すると多岐にわたるが、まず、この『証言』を報道した昭和62年の神戸新聞報道(甲B11)に対し、宮村幸延はじめ関係者が一切の異議申立を神戸新聞に行っていないこと(甲B102)が指摘できる。
 また、昭和63年の本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)でも、宮村幸延の「酒に酔っているとき、頼まれて書いた」との弁解は載せているものの、『証言』内容が真実であることについて、宮村幸延は否定したともされておらず、本田も何ら疑義を差し挟んではいない。
 原告梅澤が先に下書き(乙18 p117、甲B85)をして、それを参考にする形で宮村幸延が書いたというのは事実のようであるが、この下書きと、完成した『証言』を比較して明らかになるのは、むしろ宮村幸延の任意性、自発性である。
 すなわち、
 _悉颪では「宮村盛秀の命令」となっているのが、完成した『証言』では「当時兵事主任(兼)宮里盛秀」とされ、肩書きが付され、当時の正しい名字に訂正されている。
下書きでは「遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です」とされているのが、完成した『証言』では「之は弟の宮村幸延が遺族補償のため、やむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります」と直されている。
 宮村幸延の肩書きについて、下書きでは「元座間味村役場事務局長」とされているのが、完成した『証言』では「右当時援護係」とされている。
などの相違が、下書きと『証言』とにはあり、宮村幸延が、本人なりに誠実に、正確を期して丁寧に内容を表現したことが明白である(梅澤調書 p15〜)。原告梅澤に言われるままに書いたのでも、そのときに泥酔して判断能力が劣っていたのでもなかったのである。
 (4)本田靖春『第一戦隊長の証言』と宮村盛永『自叙伝』
 昭和62年の神戸新聞報道(甲B11)に触発された本田靖春が、丹念な取材を経て発表したのが、昭和63年の『第一戦隊長の証言』(甲B26)であり、これが、《梅澤命令説》が虚偽であることをさらに広く世に明らかにすることとなった。
この『第一戦隊長の証言』の中では、宮村盛永『自叙伝』が一部引用されていたが(甲B11 p293、原告準備書面(3)p3〜)、この訴訟において被告から提出された『自叙伝』(乙28。昭和31年起稿)には、原告梅澤による自決命令は明記されておらず、逆に、宮村盛永(当時の姓は宮里)が、一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程がなまなましく記載されているのである(原告準備書面(5)p15〜、原告準備書面(7)p44〜)。
「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」(以上No.69部分)
「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味の山は殆ど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然とするばかりであった。丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。」と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機関銃は頭をかすめてピュンピュン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさい』との事であったので、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったか政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」(以上No.70、71部分)
この文章から明らかなように、まず一族で「玉砕」するのがましではないかと言い出したのは盛永であり、相談した家族は皆賛成であったという。「玉砕」が軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっきり表れている。そして、25日の午後9時頃、直が一人でやって来て『村の近い処で軍と共に全員玉砕しようではないか」と持ちかけことも記載されている。そのときも「皆同意」したのである。
また、結局盛永自身は、家族とはぐれるなどの経過の中で、自決をせず生き残ったのであるが、これも自決についての軍命令ないし隊長命令がなかったことのあらわれといえよう。宮村盛永は元座間味村長であり(甲26p293)、当時の助役の父なのであるから、《梅澤命令説》が真実だとすれば、他の多数の村民らとともに最も忠実に命令に従ったはずではなかろうか。
 (5)『座間味村史』での総括
 1989(平成元)年発行の『座間味村史』(上巻乙49、下巻乙50)は、座間味村史編集委員会が編集し、座間味村役場が発行した公式の村史であるが、上巻の村史の記述、下巻の住民の戦争体験記のいずれにも、《梅澤命令説》は一切書かれなかった。
    逆に、下巻に収録されている宮城初枝の手記においては、昭和20年3月25日の夜に宮里盛秀助役や初枝ら村幹部5人が原告梅澤を訪ねたが、村幹部らが住民の自決のための武器提供を求めたのに対し原告梅澤が「お帰り下さい」と言ってそれを断ったことが書かれている(乙50p15)。
むしろ『座間味村史』において明らかにされているのは、米軍の容赦ない攻撃に住民が錯乱状態に陥った中で、米軍に対する恐怖と、「死ぬならみんなで」との思いから、集団自決があちこちの壕で時刻もばらばらに家族単位で実行されていったことである(乙49 p349〜)。
「夜がふけても、艦砲射撃はいっこうに止む様子がなく、住民たちの不安は一層増すばかりであった。そんな状況のなかで、『伝令』とよばれる役場職員が、『全員忠魂碑前に集まるように』と、座間味村落の各壕に呼びかけてきた。−中略−住民たちは『もはやここまでの命』と即断せざるを得なかった。」)
「『いつわが身に、あるいはわが子の頭上に弾が落ちてくるかわからない。自分たちだけ死ぬのは困ると思った』と数人の女性たちは証言し、考えられることは住民全員で『自決』することだったという。
 これまで一度とて、住民の間で『玉砕』やら『集団自決』ということについての話し合いがなされたことはない。つまり、死への『打ち合わせ』が全くできていない状態で、しかも家族単位で避難し部落民がバラバラであったにもかかわらず、この時は誰もが同じことを考えていたのである。」(p354、355)
「二六日昼近く、米軍は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきていた。はじめて住民の目に映った米軍は、同じ人間でも日本人とは違う目、肌の色をし、鼻が高く、背も“普通”ではなかった。まさに『鬼畜米英』そのものだったのである。住民たちは、それまで単なる噂として受け止め、さほど気にもしなかった『アメリカーに捕まったら、婦女子はさんざんもてあそばれたうえに刺殺され、男は道に並べられてローラーの下敷きにされる』という話を、そして『生キテ虜囚ノ辱メを受ケズ』の戦陣訓までをも、現実のものとして捉えないわけにはいかなかった。」(p360、361)
 特に自決の直接の動機として強調されているのが、「米軍への恐怖」である。下巻(乙50)の冒頭では、下記のように総括されている。
「共通していえることは、『鬼畜米英』の“アメリカー”に捕まることを恐れたということだ。」(p3)
「たしかに、『玉砕』のその瞬間は、国家も天皇陛下もなく、愛する自分の肉親を、“アメリカー”の残酷な手に渡すまいと手をかけたのがほとんどであった。」(p4)
 一方で、「日本国家は何年もかけ、ジワリジワリと、住民への『玉砕』を強要していたことを見逃すわけにはいかないだろう」(p4)というような記述もあるが、これは、軍命令ないし隊長命令がなかったことの証左である。「日本国家によるジワリジワリとなされた強要」の有無や、国ないし軍の(広い意味での)責任の存否については、解釈問題として議論のありうるところであるが、本件訴訟で焦点となっている《梅澤命令説》の存否とは、全く別次元のテーマであり、問題がすり替えられてはならない。
    なお、この『座間味村史』における各住民の証言(乙50)の重要部分については、原告最終準備書面その2−住民証言篇−でまとめている。下巻の「村民の戦争体験記」の多くは、宮城晴美が聞き取り、執筆等を行ったもので(乙63p3)、正確緻密なものと評価できる。
 (6)『母の遺したもの』の衝撃
   ア  沖縄タイムス記事「母の遺言」(甲B92)
 座間味村での集団自決と真実ではない《梅澤命令説》が流布され定着した経緯について、全容をほぼ明らかにしたのが、平成12年12月発行の宮城晴美著『母の遺したもの』(甲B5)であった。
 ただ、これに先立つ平成7年6月に、宮城晴美は、沖縄タイムスに「母の遺言」という記事を書き(甲B92)、この中で、後に『母の遺したもの』で発表する内容の概要を述べている。
 まず、「上」(甲B92の1)では、宮城初枝が、『悲劇の座間味島』に記載した《梅澤命令説》証言が独り歩きしたことにより苦悩し、その証言により梅澤個人を戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念を有しており、宮城晴美に手記の書き直しを託したとの経緯が述べられている。
 そして、「中」(甲B92の2)には、宮城晴美は次のように記し、宮城初枝が援護法の補償を島民が受けるために《梅澤命令説》を公的に証言せざるを得なかった事情を明らかにしている。
「その『隊長命令』の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。
 母はいったん、証言できないと断ったようだが、『人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか』という長老の怒りに屈してしまったようである。
 それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は『集団自決』の個所にくると、いつも背中に『援護法』の“目”を意識せざるを得なかった。」
 この部分は、おそらくは、あまりに赤裸々に実情を明らかにし過ぎる叙述であるとの考慮からであろう、『母の遺したもの』では、削除されている(甲B5 p250〜参照)。
 さらに、「下」(甲B92の3)では、宮城晴美は、「島の有力者たちがやってきたものの、いつ上陸してくるかも知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に『玉砕』の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していった」、「その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って『忠魂碑前に集まるよう』呼びかけたのである」、「伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に『自決』とか『玉砕』という言葉を聞いていない」などと宮城晴美は母の体験や住民から聞き取り調査した結果を要約して述べ、原告梅澤が住民に「玉砕」の指示を出していないことを明らかにしている。
   イ 『母の遺したもの』の発表
 平成12年12月、宮城晴美は『母の遺したもの』(甲B5)を発表し、県内でも話題になった。
 この出版を報道する沖縄タイムスの記事(甲B93の2)においては、この書籍の内容紹介として「『集団自決を命じたのは座間味村役所の助役だった』という事実−中略−を収録」と書かれている。
 当時、《梅澤命令説》、《軍命令説》が真実ではなく、《宮里盛秀助役命令説》が真実であることがこの書籍により明らかにされたと、一般的にとらえられたのである。
 そして、発表の約1年後、『母の遺したもの』は第22回沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。甲B93の1は、その受賞を報道する沖縄タイムスの記事であるが、この書籍の内容紹介として「実は軍命はなかった、と母は著者に明かす」とまとめられている(この書籍の出版当時から一般的に「隊長命令」と「軍命令」とは異なるなどとは特に意識されてはいなかった)。沖縄タイムス社ですら、『母の遺したもの』には集団自決に際して「軍命」はなかったとの真実が確かな根拠にもと語られているものと認識し、その真摯な叙述ぶりとも合わせて高く評価して賞を授与したのであった。
 改めて指摘するが、宮里盛秀助役が最終的に集団自決を住民に命じたことが『母の遺したもの』には明瞭に語られている。
「追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。」(p216)
「結局、住民を敵の『魔の手』から守るために、盛秀は自分や妻子の命をもかけて、『玉砕』を命令し、決行した。」(p219)
 《梅澤命令説》が誤りであったことは、『母の遺したもの』の発行とそれが沖縄タイムス出版文化賞を受賞したことによって、学問的にも社会的にも完全に確立し、定着したといえるのである。
author:南木隆治, category:-, 02:25
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